山下勇
経歴
東京都出身[1]。1937年に東京帝国大学工学部を卒業し、同年に三井物産に入社し、造船部に配属[1]。三井造船に転じ、1955年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格[1]。1979年6月に会長を経て、1985年6月に相談役に退く[1]。
逸話
1988年(昭和63年)3月、キハ58系気動車改造のジョイフルトレイン「アルカディア」が上越線で臨時列車として運転中、エンジン発火事故を起こした。死者はなかったが、気動車1両が全焼により廃車となった。これに伴い、JR東日本はDMH17系エンジン搭載車について、1992年(平成4年)までに新型エンジンへの置き換えを終えた。
これは戦前に船舶エンジンの開発に携わっていた技術者の山下が、アルカディア事故の報告を受け、すぐさま事故原因の一つとおぼしいDMH17Hエンジンの設計図を取り寄せさせ、図面を見るなり「これは戦前のエンジンではないか!!。まだこんなエンジンを使っていたのか!?」と驚愕したという(DMH17H自体は1960年の開発ではあるが、原設計の多くは大東亜戦争以前の1930年代に作られたガソリンカー用のエンジンGMH17に端を発する設計であり、山下がまさに現役のエンジニアであった当時のエンジンの特徴を備えていた)。同様な火災事故の発生を危惧した山下ら首脳陣は、すぐにエンジン更新の指示を発し、短期間でDMHエンジンの置き換えが完了した[3]。
栄誉
脚注
- 人事興信所 1991, や142頁.
- 1994年 5月7日 日本経済新聞 朝刊 p1
- 山之内秀一郎 『JRはなぜ変われたか』 毎日新聞社、2008年、ISBN 978-4-620-31832-5。
参考文献
- 人事興信所 編『人事興信録 第36版 下』人事興信所、1991年。
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