小西作太郎
経歴・人物
1918年に京都大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社し、印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり[1]、他社よりも先駆けて、扁平活字を考案し、採用した[2]。
京都第二中学時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ[2]。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた[2]。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった[2]。第1回大会から審判委員を務め、日本高校野球連盟顧問も務め、長期にわたって、大会運営に携わった[2]。
脚注
- 朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 p201-p204
- 1985年 2月6日 朝日新聞 朝刊 p23
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