小出光照
生涯
父・小出只五郎は篠田家の出身である[1]。妻・操は山川浩の妹で、のちに昭憲皇太后附女官・フランス語通訳を務めた。
幕末
藩校・日新館の秀才として知られ、通常より3年早く15歳で一等試学に及第。藩主・松平容保の小姓に抜擢される。小出は江戸遊学を許されて古屋佐久左衛門の私塾に通い、洋学を学んだ。しかし花見の帰りに番所役人に咎めを受け、揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰藩を命じたが、古屋と相談した小出は脱藩して外国に赴くことを決意。横浜からの出航に備える中、鳥羽・伏見の戦いでの会津藩の敗報が届く。藩の危機に小出は外国行きを取りやめ、山川浩の仲介で帰藩した。戊辰戦争では軍事方として越後方面で戦い、のちに会津若松城籠城戦に加わったが、藩は降服を迎えた。
猪苗代で謹慎中、秋月悌次郎が旧知の長州藩士・奥平謙輔と連絡を取るため脱出することとなり、長州藩士と面識がある会津藩領の真竜寺の僧・河井善順の協力を得て、小出も僧に姿を変え越後に赴いている。奥平に面会した秋月と小出は藩の処分につき陳情し、また少年2人を書生とするよう依頼。奥平は快諾した。少年は山川健次郎、小川亮(陸軍工兵大佐)である。
脚注
- 『会津人物事典 (武人編)』では、鉄之助が篠田家の出身で小出家の養子となっている。
参考文献
- 園田日吉『江藤新平と佐賀の乱』新人物往来社
- 長谷川つとむ『会津藩 最後の首席家老』中公文庫(著者は日本大学教授、梶原平馬の一族)
- 『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社
- 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
- 『三百藩家臣人名事典2』新人物往来社
- 『幕末維新大人名事典(上)』新人物往来社
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.