将軍塚

将軍塚(しょうぐんづか)は、京都府京都市山科区東山(桃山丘陵[1])の稜線上、華頂山の山頂にある直径約20m・高さ約2mの塚[2][3]四条通の延長線上、八坂神社の真東に位置する。

将軍塚
標高 216 m
所在地 京都府京都市山科区厨子奥花鳥町
位置 北緯35度0分7.5秒 東経135度47分13.03秒
山系 東山 桃山丘陵[1]
種類
将軍塚の位置(京都市内)
将軍塚
将軍塚 (京都市)
プロジェクト 山

概要

将軍塚は古墳時代円墳3基からなる将軍塚古墳群のうちのひとつ[4]。もともと京を見下ろす東山の峰の頂に築かれた古墳であるが、鎌倉時代頃には王城鎮護守護神とされた坂上田村麻呂の塚墓が投影・習合されていたことで中世以降に将軍塚と呼ばれ、『田邑麻呂伝記』などに記される国家に非常時があれば塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴るという田村麻呂の塚墓の話が「将軍塚鳴動」の伝承として将軍塚にも付会された[5][6][4]

現在、この場所は天台宗青蓮院門跡将軍塚青龍殿の境内にあり、東郷平八郎元帥や黒木為楨大将、大隈重信首相がこの地を訪れた時に残した手植の松や石柱などがある。

将軍塚鳴動

平安時代

平安時代征夷大将軍としても高名な大納言の坂上田村麻呂が弘仁2年5月23日ユリウス暦811年6月17日)に薨去した[原 1][7]。『群書類従』所収『田邑麻呂伝記』によると5月27日6月21日)に葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって同日中に山城国宇治郡栗栖村[注 1]甲冑兵仗[注 2]弓箭を身にした姿で平安京の東に向かってを立つように埋葬されたとある[8]。また『田邑麻呂伝記』には次のように記されている。

其の後、若し国家に非常の事あるべくむば、則ち件の塚墓は宛も鼓を打つが如く、或ひは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向ふ時は先づ此の墓に詣で誓ひ祈る『田邑麻呂伝記』

国家に非常時があれば塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴るとの田村麻呂の塚墓にまつわる伝説がある。将軍塚は田村麻呂の塚墓に習合されたことで、将軍塚にも「将軍塚鳴動」伝承が付会された[5]。そのため平安末期以降に混同や同一視されることになったが本来は別なものである[6]。現在、田村麻呂の塚墓は京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町西野山古墓が田村麻呂の墓所と推定されている[9]

鎌倉時代

鎌倉時代に成立したとされる軍記物語の『平家物語』には将軍塚が次のように記されている[原 2][6]

それ以来、代々の帝がさまざまな地に多く都を遷されたが、これほど適した地はないと、桓武天皇は特に執心され、大臣・公卿・諸道の優れた者たちに命じ、都が長久に続くようにと、土にて八尺の人形を作り鉄の鎧甲を着せ同じう鉄の弓矢を持たせて末代といふともこの京を他国へ遷す事あらば守護神と成らんと誓ひつつ東山の峰に西向きに立ててぞ埋まれける。されば天下に事出で来んとてはこの塚必ず鳴動す。将軍塚とて今にあり『平家物語』巻第五「都遷」

『平家物語』では将軍塚に埋められた8尺の土偶について「鉄の鎧兜を着て鉄の弓矢を持たせ、西向きに立って埋められている」と記すが、これは『田邑麻呂伝記』に記載された田村麻呂の埋葬方法から引用された文言を追加することで将軍塚鳴動をひとつの物語へと改編している事が窺える[原 2]

『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』「遷都付将軍塚並司天台事」は『平家物語』「都遷」と同様の記述がなされている[原 3]。一方では「将軍塚鳴動事」には次のように記されている[原 4]

七月七日申刻に。南風俄に吹て。碧天忽に曇り。道を行者夜歩に似たりけれは。人皆くやみをなす處に。將軍塚鳴動する事一時か内に三度なり。五畿七道悉く肝をつふし。耳を驚す。後に聞えけるは。初度の鳴動は。洛中九萬餘家に皆聞へ。第二度の鳴動は。大和。山城。近江。丹波。和泉。河内。摂津。難波浦まて聞えけり。第三度の鳴動は。六十六箇國に漏ることなく聞えけり。昔より度々鳴動ありしかとも。一時に三度是そ始なりける。東は奥州の末。西は九箇國のはて迄も聞えけるこそ不思議なれ。『源平盛衰記』巻十一「将軍塚鳴動事」

治承3年7月7日(ユリウス暦1179年8月11日)、申の刻(午後3~5時)に将軍塚が3度鳴動したとある[原 4]。この翌年に源頼朝が挙兵して、治承・寿永の乱が始まった[10]

室町時代

室町時代に成立した軍記物語の『太平記』には次のように記されている[原 5]

貞和五年正月の比より、犯星客星無隙現じければ旁其慎不軽。王位の愁天下の変、兵乱疫癘有べしと、陰陽寮頻に密奏す。是をこそ如何と驚処に、同二月二十六日夜半許に将軍塚夥しく鳴動して、虚空に兵馬の馳過る音半時許しければ、京中の貴賎不思議の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷す処に、明る二十七日午刻に、清水坂より俄に失火出来て、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守まで一宇も不残炎滅す。火災は尋常の事なれ共、風不吹大なる炎遥に飛去て、厳重の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄定れる表事也。(後略)『太平記』巻第二十七「天下妖怪事付清水寺炎上事」

貞和5年正月頃から犯星客星が次々に現れて陰陽寮は変事・兵乱・疫病の予兆であると占い密かに奏上した。貞和5年2月26日(ユリウス暦1349年3月15日)の夜半に将軍塚が激しく鳴動して空に兵馬の駆ける音が1時間ほど続いたため京の人々はみな恐れおののいた[原 5]

江戸時代

正徳元年(1711年)に刊行された『山城名勝志』は『大和本記』という本を引用して延暦13年2月に平安遷都の折、桓武天皇は末代まで王城を守護せよとの祈りをこめて、東山の頂に8尺(約2.5m)の土偶を造り埋めた塚であり、将軍塚と名付けられて王城に変事があれば動揺すると将軍塚鳴動の伝説が述べれている[6]

アクセス

関連資料

将軍塚が記録される資料

脚注

原典

  1. 『日本後記』弘仁二年十月十七日条
  2. 『平家物語』巻第五「都遷」
  3. 『源平盛衰記』巻十六「遷都付将軍塚並司天台事
  4. 『源平盛衰記』巻十一「将軍塚鳴動事」
  5. 『太平記』巻第二十七「天下妖怪事付清水寺炎上事」

注釈

  1. 『清水寺縁起』所収『太政官符』では「賜本願将軍墓地官府(在山城国宇治郡七条昨田里西栗栖村)」とある
  2. 「釼」はもしくは

出典

  1. 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 京都東南地域の地質
  2. 天台宗青蓮院門跡将軍塚青龍殿 将軍塚
  3. 日本経済新聞 1200年を見渡す舞台 将軍塚青龍殿
  4. 角田文衛 1994, pp. 110–111.
  5. 京都市 1968, pp. 340–341.
  6. 高橋崇 1986, pp. 177–178.
  7. 高橋崇 1986, p. 172.
  8. 高橋崇 1986, pp. 175–177.
  9. 鈴木拓也 2016, pp. 87–90.
  10. 京都市観光協会 京都観光Navi 将軍塚

参考文献

  • 京都市 編『平安の新京』学芸書林〈京都の歴史 1〉、1968年。
  • 鈴木拓也 編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館〈東北の古代史 4〉、2016年6月20日。ISBN 978-4-642-06490-3。
  • 高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館人物叢書〉、1959年。
  • 角田文衛『平安の都』朝日新聞社朝日選書〉、1994年11月1日。ISBN 9784022596154。

関連項目

  • 高山寺 - 紙本墨画将軍塚絵巻を所蔵する。

外部リンク

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