孫充
生涯
孫晧の子として生まれた。『三国志』では、孫晧には少なくとも34人の息子が存在し、太子と王に封じられた記録が残っているが、その中で4人の名前(孫瑾[1]・孫虔[2]・孫充[3]・孫璠[3])だけしか判明せず、7名は王の称号しかわからず[4]、残りの23名は名前も王の称号も記録されていないため、現代では孫充は呉の諸王になっているのは確認できるが、孫充の兄弟の詳細はほぼわからない状況となっている[5]。
天紀4年(280年)3月、呉が西晋に滅ぼされると、孫晧は孫瑾や孫虔ら21人の息子と共に晋に降伏した[6]。司馬炎は孫晧を帰命侯に封じ、また孫晧の太子だった孫瑾を中郎に任じ、孫充をはじめとする孫晧の子で諸王となっていた者を郎中に任じたという[7]。
八王の乱で中原が混乱した永嘉4年(310年)、呉興人の銭璯が平西大将軍・八州都督を自称し、孫充を呉王に擁立して西晋へ反乱を起こしたが、孫充はすぐに銭璯に殺された。反乱は司馬睿が派遣した郭逸らと義兵を興した周玘らによって討伐された[8]。
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