孝恵賀皇后
生涯
右千牛衛率府率であった賀景思の長女[1]で、賀令図の叔母にあたる。開運元年(944年)、父の同僚であった趙弘殷によって趙匡胤の妻に迎えられた[1]。趙匡胤との間に魏国公主・魯国公主・趙徳昭の3人の子を儲けた。顕徳3年(956年)に趙匡胤が定国軍節度使に任じられると賀氏も会稽郡夫人に封じられた[1]。
顕徳5年(958年)に30歳で死去[1]。趙匡胤が宋を建てた後の建隆3年(962年)4月、皇后に追封された。乾徳2年(964年)3月に孝恵皇后と諡され[2]、4月に安陵の西北にある神主享の別廟に葬られた。
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