失われた都市Z

失われた都市Z(うしなわれたとし ゼット、:Lost City of Z)は、イギリスの探検家パーシー・フォーセットブラジルマットグロッソ州のジャングルの中に存在すると考えていた先住民の都市。

パーシー・フォーセット(1911年撮影)

失われた都市Zという名称はフォーセット自身が命名した暗号名に由来する。フォーセットはこの都市をただ単に「Z」と呼称したが、その由来は本人が語っていないため、一切不明である[1]

フォーセットは、南アメリカの初期の歴史とアマゾン川流域の探検で得た知見に基づき、かつてアマゾンには複雑な文明が発生し今でもその遺跡が残っている可能性があるという理論を立てた[2]

1920年、フォーセットは都市を発見するために探検に乗り出したが、結果的に熱に苦しまされ荷物を運搬する動物を射殺することになったので探検を諦めた[2]。 5年後の1925年に行われた探検でフォーセットとその息子のジャック、ジャックの友人のローリー・ライメル(Raleigh Rimell)の3人はマットグロッソのジャングルで姿を消した。

導入

アマゾンには有史以来高度な文明が栄えたことはないとされる。アマゾンの環境は過酷で食物も育たず、人口の増加も望めなかったため、様々な文化や技術もまったく発展しなかった[3]

しかし、コンキスタドールたちの年代記には、神殿を建造して精巧な工芸品も生み出していた『白く輝く都市』の目撃談などアマゾンに文明が栄えたことを示す証言が数多く残されている[4]

年代記はそれらの記述から学者によって信用出来ない代物だとされていたが、フォーセットは自身がアマゾンを探検した経験から、年代記には事実が含まれていると感じた[5]エルドラドの黄金郷伝説は作り話だとしても、文明に関する記述や女性戦士などについては実在したか、モデルがあるだろうと考えた[5]

ジャングルでの発見

1910年、ボリビアのヒース川を探検中にグアラヨ族から毒矢を使った攻撃を受けた。フォーセットは同行の探検者に反撃しないように伝えて、インディアンの言葉で「友、友、友」と言いながら、降り注ぐ毒矢の中を進んでいき、最終的に彼らと和解した[6]。グアラヨ族はヨーロッパ人のアマゾンに対する見解とは異なりジャングルの中でも食料を調達する方法や薬学に精通していた[7]

フォーセットはこの出来事からアマゾンのジャングルに失われた文明が存在すると考えるようになった[8]

1914年、フォーセットはアマゾンの奥地を探検中にマスビ族の集落にたどり着いた。集落には数千人の住民が暮らしており、彼らは様々な面で文明的だったので、普通のヨーロッパ人は近寄らない、川から離れたジャングルの奥地には、当時の民族学の常識を覆すような事実があると考えた[9]

また、フォーセットはアマゾンのジャングルで岩に描かれた古代絵や土器を発見していた[10]。フォーセット曰くアマゾン盆地に点在するアルトゥラスと呼ばれる高台の近くには必ず遺物があり、さらに、高台は別の高台と道路のようなもので結ばれていたという[10]

フォーセットは探検の合間を縫って過去に南アメリカを探検した人々の年代記を調査していた。

1753年に発見された古代都市

フォーセットはブラジル国立図書館でポルトガル人バンデイランテスが書き残した『1753年発見の......大きな隠された古代都市の史記』という文書を発見した[11][lower-roman 1]。この文書は当時のブラジル総督ルイス・ペレグリノ・デ・アタイデに宛てられたものである[13]。フォーセットはこの文書がアマゾンに文明が存在した重要な証拠だと考えていた[14]

文書は、1753年、ミナス・ゲライスに住む名もなき男(名前は失われている)がムリベカ銀山を探しに行くところから始まる[15]。地図や測量など無い時代で進む方向は適当だったが、フォーセットの調査によると男の一団は北に向かったという[15]。彼らは10年もの間、銀山を求めて一帯を彷徨ったが、得るものは何も無く、海岸沿いにある植民地に向けて東に進むことにした[16]

途中、森林地帯の平原の先に、切り立った山が現れた。男は探検心から、その向こうの景色を見たくなり、登頂を試みたが、山は絶壁で登ることが出来なかった[17]。一行は夜営をすることになり、ホセとマノエルにたき木を探しに行かせた。2人はたまたまシカを見かけ、その姿を追っていったところ、頂上に登っていけそうな割れ目を見つけた[17]。その発見を聞き付けた一行は夜営を取り止めて、登頂を再開し、時間を掛けて山頂まで辿り着いた[18]

頂上から景色を眺めたところ、山の麓から4マイル先に巨大な都市があった[18]

一行はその都市がスペインの植民地かもしれないので急いで身を隠した[18]。一行は麓に降りていって道から離れた小川近くにたどり着きそこで夜営した。名もなき男はポルトガル人2人、黒人4人の偵察隊を結成して、都市の詳細を調査させに行かせたが、人が住んでいるような気配はなく、そもそも付近に遮蔽物が何も無いため都市に近づくことは出来なかった[19]。そこで一行に同行してきた先住民を偵察に出すことにした[19]。彼は一行に都市は無人だとの報告をもたらしたので都市に向かうことになった[19]

都市は廃墟になってから久しいようで、地面に埋没している建物やコウモリの排泄物で埋まってしまった建物もあった[20]。至るところの地面が割れていることから都市は地震に襲われて滅んだものと推察された[20]

都市の外方には植物に覆われた城壁があり、そこを進むと、3つのアーチがある門が現れた[21]。真ん中のアーチの上には正体不明の文字が刻まれた石があった[21]。アーチを潜ると広い通りがあり両端には2階建ての家が連なっていた[21]。通りは大きな広場に接続されて、その広場の四隅には黒石の尖塔があり、中央には北を指差しながら別の手を腰に当てた男の彫刻が安置された黒石の柱があった[22]

男がこの都市から書き写したもの。
彫られていた場所は、1番目が宮殿らしき建物の上、2番目と3番目は大瀑布近くの洞窟、4番目が都市から少し離れた位置にある遺跡である[23]

広場には宮殿らしき建物があり、その玄関の上部にはギリシャ文字らしきものや青年の像があった[22]。宮殿の向かい側には神殿らしき建物があり、ここの入り口の上にも文字らしきものが刻まれていた[20]。広場の向こうには川があり、それを渡った場所、都市から4分の1マイル離れた所には、文字が刻まれた石碑やカラフルな石で出来た階段がある建物があった[20]

ホアン・アントニオ(唯一名前が残っている人物)が都市で金貨を拾ったことから、一行の都市に対する見方が恐怖から欲望に様変わりした[24]。都市には地震から急いで逃げた住民たちの財宝が遺されていると考えられるが、詳細は語られてないため不明である[24]

男は川近くの森林から入り文明世界へと帰還することにした。いったんここを出て財宝を運搬するための探検隊を引き連れてから、この都市に戻ってくる予定だった[25]。なお、都市の位置については不明だが、一行の先住民が覚えてくれるだろうと考えた[25]

都市を離れて50マイル進むと大瀑布があり、その絶壁には鉱山跡があった[25]。男たちは東に向かって進み、サン・フランシスコ川に着いてからパラグァッス川を経由してバイアに到着した[26]。男は都市の財宝と鉱山を自分たちのものにするため、バイアからブラジル総督のアタイデに手紙を送ったが、スルーされた[26]

それ以降の男や都市の運命については、不明である[26]。100年後にブラジル政府がこの文書を発見し、探検隊が組まれたが、何の成果も上げられなかった[26]

フォーセットによるとブラジルにはこの様な失われた都市が点在しているという[27]

前述したように都市の神殿や彫像には象形文字かギリシャ文字に類似した謎の図もしくは文字が刻まれていた[28][29]。名もなき男はその文字らしきものを史記に書き写しており、史記を見たフォーセットはそれを自分の日記に模写している[28][29]

アラビアンナイトの翻訳で有名な探検家のリチャード・バートンもこの文書を読んでアマゾンのジャングルに赴き、そこでの探険を綴ったExplorations of the Highlands of Brazil: With a Full Account of the Gold & Diamond Minesを出版した[23]

シングー川流域の失われた都市

1753年に発見された都市はブラジル東部のバイーア州付近にあると考えられるが、調査を進めたフォーセットはシングー川のジャングル、具体的にはシングー川とタパジョス川の間に存在する未踏のジャングルにも別の失われた都市があるという仮説に至った[1][30]。フォーセットはシングー川流域のこの都市を単に"Z"と呼称した[1]

2つの川やその支流自体は人々の探査を受けていたが、その周辺の陸地のジャングルは未踏だった。しかし、陸地を切り進んでいくのは大変危険だった。フォーセットは発見を先取りされることや、自身が行方不明になった際に救出部隊を派遣させないために[lower-roman 2]、失われた都市Zの正確な所在地を明らかにしなかった。

フォーセットによると、失われた都市Zは、峡谷の中の高台に位置し石造りの道路やピラミッド型の神殿などがあるという[32]。いっぽう、アマゾンに失われた都市Zがあるという話に当時の科学者は否定的な態度を示した[33]

探検

ライスとフォーセット

フォーセットがZ発見にむけて探検の準備をしているときに第1次世界大戦が勃発しイギリス政府の支援を受けられなくなった。フォーセットはイギリスに戻って西部戦線に従事した。

終戦後、フォーセットは資金集めに奔走したが、大学で考古学や人類学の教育を受けた専門家の台頭によって、フォーセットのような探検家には資金が集まり難くなっていた[33]。ロンドンで出会ったブラジル大統領のエピタシオ・ペッソアはフォーセットの考えに共感を示したがブラジルに探検を支援するような金銭的余裕はなかった[34]

アレクサンダー・ハミルトン・ライス(1919年~1920年のアマゾン探検時に撮影)

フォーセットのアマゾン探検には医師で億万長者のアレクサンダー・ハミルトン・ライスというライバルがいた[35]

ライスは先進的なテクノロジーと大規模部隊でジャングルの攻略を試みた[35]。お金持ちではなく、ジャングルに大規模な部隊を引き連れていくのは無謀だと考えて少数精鋭で探検に挑んでいたフォーセットとは対照的な人物だった[36]

終戦後、ライスはジャングルの河川地域を進むために14メートルの船エレナⅡ号を建造してオリノコ川周辺を探検していた[37]カシキアレ川を遡る途上で先住民の遺物が遺されていると噂されるジャングルを探検していたところフォーセットの日誌に登場するものとよく似た古代絵を発見した[38][lower-roman 3]

1920年2月、フォーセットはリオデジャネイロに到着した。フォーセットはイギリス大使ラルフ・パジェットの邸宅に身を寄せた。この頃ライスが古代絵を発見したという報告をもたらし、装備を整えてから再びジャングルに挑戦すると宣言したことでフォーセットを動揺させた[40]

準備と出発

パジェット大使のアテンドでフォーセットとペッソア大統領と現地の探検家カンジド・ロンドンの三者会談が実現、フォーセットはそこでZについて熱弁を振るい大統領の共感を得たが、ロンドンは探検ルートを明かさないフォーセットをスパイではないかと疑った[41]

ロンドンがZ探索はイギリスとブラジルの共同で行われるべきだと主張したところ、フォーセットが激昂し単独で探険に向かう旨を伝えた[41]。ブラジル側の財政難により、英伯合同で探検隊を編成する案は頓挫したが、大使の尽力でブラジル政府はフォーセットに同行する人間に対して援助を行うと決定した[41][42]

その同行者はイギリス航空省の士官だったが、急遽ブラジルへの渡航を取り止めたので、現地で同行者(有能な若い男)を募集する新聞広告を掲載することになった[42]。探検仲間のヘンリー・コスティン(Henry Costin)とアーサー・マンレー(Arthur Manley)が終戦後に前者が引退、後者が死亡していたので探検に際して彼らを頼ることは出来なかった[lower-roman 4][44]。フォーセットは彼らに絶大な信頼を寄せており、自分に着いてこれる人物はコスティンとマンレーだけだと語っていた[45]

フォーセットは新聞広告の応募者の1人、オーストラリア人ボクサーのルイス・ブラウン[lower-roman 5]を同行者に選出した[46]。ブラウンは馬と船に精通していると誇っていた。ブラジル政府はフォーセットたちに2人の軍人を付けることを約束した[47]

8月12日、フォーセットとブラウンはサンパウロに向かった。サンパウロで毒ヘビの血清を手に入れたあと、蒸気機関車でパラグア川まで移動してから川を蒸気船コルンバまで遡った[48]。コルンバではブラジルの財政難やベルギー国王と王妃の来伯によって軍の士官を派遣出来なくなったとの電報を受け取った[49]

クヤバにて新聞広告の募集者の1人で鳥類学者のアーネスト・ホールト(Ernest Golsan Holt)[lower-roman 6]と合流してから、馬と牛を2頭ずつ連れて北部のシングー川を目指して出発した[46][50]。馬に慣れていると自称していたブラウンが馬に乗れないことが判明し、体調も悪化していったので、フォーセットはブラウンにクヤバに引き返すことを勧めて彼を帰還させた。

北へ

探検の途上で立ち寄ったヘルメネギルド・ガルヴァ大佐が運営する農場ではシングー川とタバティンガ川の間に住むナファクア族(Nafaqua tribe)の族長が神殿を建て洗礼の文化を持つ先住民の都市の話を知っているという情報を仕入れた[51]。また、別の先住民から消えない明かりがついたままの家(遺跡)があるという話を聞いたフォーセットは、いにしえの世界には今では失われてしまった照明の技術や方法があったに違いないと回想している[51]

一行は北に向かって進み続けてクヤバ川上流近くに辿り着いた[52]。ここは、大蛇が泳ぎ回っているため大変危険とのことだった。そこをさらに北に進んだところの森林地帯では雷雨やシラミの大群に襲われた[53]。フォーセットはシラミを何とも思わなかったが、ホールトはシラミの大群に参ってしまったった[53]

次第に両名が精神的、肉体的に疲弊していった。ホールトはジャングルの昆虫に精神を削られ、フォーセットの脚は感染症に罹りアヘンの錠剤も受け付けないほどに疲弊した[54]。出発から1ヶ月、フォーセットは後にデッド・ホース・キャンプと呼ばれる場所で馬を撃ち殺した[55]

撤退

ホールトとフォーセットがともに限界を迎えていたため、フォーセットは撤退を決断した。36時間を水なしの状態で過ごしながら前進を続け、1921年1月、クイアバに到着した[56][57]

フォーセットはホールトを連れて再びジャングル探検に向かう予定を立てており、今度の探検ではフォーセット、ホールト、もう一人の3人で舟で川を遡ってから、動物に頼らず荷物を自分たちで運びながら陸地を進んでいく計画だった[58]。この計画は徒歩に不慣れな仲間の負担を軽減するため大部分を川での移動に費やす予定だった[58]

ホールトは次の探検に向けてリオデジャネイロに買い出し向かった。

1921年の探検

1921年8月、今度は単独でバイーアから西に数百キロ進んでマットグロッソのジャングルに突入するルートに挑んだ。フォーセット自身は1人で探検に向かえば生還の見込みが低くなると認識していたが、ホールトとは仲違いし、息子のジャックはまだ10代だったのでチームを編成できるような状況ではなかった。


1925年の探検

フォーセットは前回の探検で貯金を使い果たしてしまい、硝酸塩鉱物や石油の採掘で探検費用の捻出を図っていた[59]。1924年春、ライスが新たな探検の準備

1921年の探検の後、アラビアのロレンスことT・E・ロレンスが次回のZ探索に自分を加えて欲しいとフォーセットに頼み込んできていた。しかしフォーセットは、アラビアでの経験があるとしても、ジャングルでは使い物にならないだろうという冷めた見方をしていた。

そこで、ロレンスの代わりにロサンゼルスに転居して俳優を目指していた息子のジャック・フォーセット(Jack Fawcett)を探検に誘ったところジャックは二つ返事でこれを快諾した[lower-roman 7]。ジャックは190cmの長身で無駄な脂肪はなく、将来、探検に出ることに備えて体を鍛え続けていた[61][62]

また、ジャックの友人のローリー・ライメル(Raleigh Rimell)も探険に加わることになった[lower-roman 8]。ライメルはジャックと一緒に俳優を目指していたが、既に見切りをつけており、新たに人生を変えるチャンスを探しているところだった[63]

デッド・ホース・キャンプの位置

1920年、南緯11度43分 西経54度35分の地点でフォーセットの馬が死亡した[64]。1925年の探検でフォーセットは再びここにたどり着き、妻へ向けた手紙を送ってから行方不明となった。ここはデッド・ホース・キャンプと呼ばれ、後年の人々がZやフォーセットを探すための重要な手掛かりになっていた。

文化人類学者の泉靖一はキャンプ(南緯11度43分 西経54度35分)から北に200kmと600kmの半円の中の何処かにZがあるだろうと推測した[65]

しかし、デイビッド・グランがキャンプの正しい座標が書き込まれたフォーセットの日誌を彼の子孫の家で発見したことによって従来の座標はフォーセットの目眩ましだと判明した[66]。偽の座標はフォーセットの息子ブライアンが編纂した『フォーセット探検記』にも書かれているが、子孫曰くブライアンが父やジャックの意志を尊重した結果だという[66]

本当のキャンプは南緯11度43分 西経54度35分から150km以上南の位置にある[30]

後年の発見

マイケル・ヘッケンバーガー(Michael Heckenberger)はシングー川上流近くにあるKuhikugu遺跡が失われた都市Zではないかと考えて10年間に渡って研究を続けてきた[67]。Kuhikugu遺跡はフォーセットがジャングルで死亡した後と思われる1925年に西欧人によって発見された。この遺跡で発見された20の町や村にはかつて5万人もの人々が住んでいた可能性がある。

アマゾニア南部の河間地域では大きな幾何学的な土塁(geometrical earthworks)が発見された[68]

2022年5月にボリビアのリャノス・デ・モホス地域のジャングルで発見されたカサラベ文化の古代都市はフォーセットの理論を後押しするものと考えられる[69]

フィクションにおけるZ

脚注

注釈

  1. この文書は図書館の整理番号である『512号』の呼称でも知られる[12]
  2. 以前この周辺で1400人編成の武装探検隊が行方不明になっていた、ほか、フォーセットは自身がこのジャングルを攻略出来ないのであれば、他の人間に攻略の目など(ほぼ)ないと考えていた[31]
  3. 川上りを再開したライスは途中で現地のヤノマミ族とトラブルになり部下に銃撃を命じたが、ライスの帰還後フォーセットはこの銃撃を厳しく非難した[39]
  4. 1910年にフォーセット主導で行われたアマゾン探検にてコスティンはエスプンディア(口や鼻などの皮膚が徐々に溶けていく感染症)にマンレーはマラリアに感染し九死に一生を得たが、その後もフォーセットのアマゾン探検に参加し続けていた[43]
  5. 『フォーセット探検記』ではブッチ・リーレーという偽名
  6. 『フォーセット探検記』ではフェリペという偽名
  7. ジャックはハリウッド女優のメアリー・ピックフォードと出会っていた[60]
  8. ジャックとライメルはイギリス時代からの友人でライメル家はフォーセット家と一緒にLAに転居してきていた[63]

出典

  1. グラン(2010年)p.175
  2. Grann, David (September 19, 2005). “The Lost City of Z”. The New Yorker LXXXI (28): 56–81. ISSN 0028-792X. http://www.newyorker.com/magazine/2005/09/19/the-lost-city-of-z.
  3. グラン(2010年)p.36、p.37
  4. グラン(2010年)p.169
  5. グラン(2010年)p.168
  6. グラン(2010年)p.144
  7. グラン(2010年)p.145
  8. グラン(2010年)p.143
  9. グラン(2010年)p.155、p.156
  10. グラン(2010年)p.157
  11. グラン(2010年)p.173
  12. 黒沼健著『十三番目の鳩通信』(世界ノンフィクション全集第20巻付録)
  13. フォーセット(1961年)p.172
  14. グラン(2010年)p.171
  15. フォーセット(1961年)p.162
  16. フォーセット(1961年)p.163
  17. フォーセット(1961年)p.164
  18. フォーセット(1961年)p.165
  19. フォーセット(1961年)p.166
  20. フォーセット(1961年)p.169
  21. フォーセット(1961年)p.167
  22. フォーセット(1961年)p.168
  23. English Translation of Manuscript 512”. Fawcett Adventure website(web.archive.org) (2010年2月27日). 2022年12月8日閲覧。
  24. フォーセット(1961年)p.170
  25. フォーセット(1961年)p.171
  26. フォーセット(1961年)p.172
  27. フォーセット(1961年)p.172~p.174
  28. フォーセット(1961年)p.168
  29. グラン(2010年)p.174
  30. グラン(2010年)p.111
  31. グラン(2010年)p.18
  32. グラン(2010年)p.17
  33. グラン(2010年)p.187
  34. フォーセット(1961年)p.229
  35. グラン(2010年)p.158、p.159
  36. グラン(2010年)p.160、p.18
  37. グラン(2010年)p.189
  38. グラン(2010年)p.190
  39. グラン(2010年)p.191、p.192
  40. グラン(2010年)p.192
  41. グラン(2010年)p.192、p.193
  42. フォーセット(1961年)p.231
  43. グラン(2010年)p.130、p.136
  44. フォーセット(1961年)p.228
  45. グラン(2010年)p.136
  46. グラン(2010年)p.194
  47. フォーセット(1961年)p.232
  48. フォーセット(1961年)p.232、p.233
  49. フォーセット(1961年)p.233
  50. フォーセット(1961年)p.235、p.236
  51. フォーセット(1961年)p.238
  52. フォーセット(1961年)p.238
  53. フォーセット(1961年)p.239
  54. グラン(2010年)p.195、p.196
  55. グラン(2010年)p.196
  56. フォーセット(1961年)p.241、p.242
  57. グラン(2010年)p.196
  58. フォーセット(1961年)p.243
  59. グラン(2010年)p.204
  60. グラン(2010年)p.200
  61. グラン(2010年)p.19
  62. フォーセット(1961年)p.291
  63. グラン(2010年)p.201
  64. フォーセット(1961年)p.294
  65. フォーセット(1961年)p.447
  66. グラン(2010年)p.99、p.100、p.103
  67. “The Lost City of Z: what happened to Percy Fawcett?” (英語). The Telegraph. (2017年3月10日). https://www.telegraph.co.uk/films/the-lost-city-of-z-what-happened-to-percy-fawcett/ 2022年12月11日閲覧。
  68. Jonas Gregorio de Souza (2018年3月27日). Pre-Columbian earth-builders settled along the entire southern rim of the Amazon”. Nature.com. 2018年3月29日閲覧。
  69. Lost Cities of the Amazon Discovered From the Air (英語). Smithsonian Magazine. 2022年12月8日閲覧。

参考文献

  • デイヴィッド・グラン『ロスト・シティZ 探検史上、最大の謎を追え』2010年、NHK出版。ASIN 414081425X
  • パーシー・H.フォーセット著、吉田健一訳『フォーセット探検記』(世界ノンフィクション全集20)1961年、筑摩書房。ASIN B000JBC2HE

関連文献

関連項目

外部リンク

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