太田静馬
生涯
文政8年(1825年)、因幡国八上郡釜口の医家太田要伯の子として生まれる。早くから蘭学を学んでいたと思われ、藩から嘱目され、「伊勢守様御家来太田幸助甥に御座候ところ、安政元寅閏七月十五日、兼て蘭学心懸候に付、御含象有之、毎歳銀五枚遣わされる旨、仰せ渡さる。」(『村岡範為馳家家譜』)とある。
鳥取藩東分知家家臣太田幸助甥の身分であったが、専ら出精致しているとの理由で、蘭学家として本藩から足留料をもらい安政5年(1858年)に4人扶持でもって正式に藩士として召抱えられている。同年6月、静馬は太田の姓から村岡の姓に改めるよう願い出て、7月18日許可された。またその12月には静馬の名も秀造に改めている。
安政2年(1855年)藩許を得て大坂の緒方洪庵の適塾に入り、さらに安政3年(1856年)江戸に出た村田蔵六(大村益次郎)に従い、その蘭学塾・鳩居堂の塾頭をしている。このことは蘭学の心得が早くからあったことと、あるいは緒方洪庵との関連が嘉永3年(1850年)以前にあったとも推測される。
明治2年10月5日(1869年11月8日)鳥取の掛出町において死去した。
出典
- 森納『因伯における牛痘接種の初め』日本医学誌雑誌第三十七巻第四号、平成3年(1991年)10月30日発行
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