天岡直嘉

天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年12月17日 - 1957年1月8日)は、明治から昭和初期にかけての官僚岐阜県出身。内閣総理大臣を務めた桂太郎の娘・輝子の夫。

1906年東京帝国大学法科大学を卒業して、内務省に入省。1907年内閣書記官となり、1912年には内閣会計課長を務める。1917年逓信省に移って為替貯金局長となり、1920年に貯金局が分離すると初代局長になった。ところが、友人の借金の保証人となったことから多額の負債を抱え、1926年に免官となり、翌1927年には破産宣告を受ける。ところが、舅である桂太郎の陸軍の後輩にあたる田中義一が総理大臣に就任すると、乞われて賞勲局総裁に就任した。しかし、叙勲を巡り天岡とその周辺に金銭のやり取りがあり、1929年田中内閣が崩壊すると、天岡は逮捕・起訴された(売勲事件)。1935年になって大審院の判決が下り、懲役2年、追徴金14,250円の実刑判決が確定した。これにより従三位を失位、勲二等瑞宝章勲三等旭日中綬章及び大正三四年従軍記章第一回国勢調査記念章大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された[1][2][3]

脚注

参考文献

  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年、ISBN 978-4-8169-1853-7 P92

外部リンク

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