大関力士碑
概要
1983年(昭和58年)10月5日に完成。九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が1898年(明治31年)に寄付した2個の仙台石である。江戸勧進相撲で初めて木版刷りで発行された縦一枚番付である1757年(宝暦7年)10月のものに大関として記されている雪見山堅太夫を初代とし、豪栄道豪太郎までの116人の四股名と出身地[1]が刻まれている[2][3]。このうち横綱に昇進した者や看板大関は刻まれていない[4]。
刻名式は、横綱力士碑とは異なり現役引退後に行われ、完成後初の引退大関となった琴風豪規以降、引退順に刻名される[5]。ただ刻名式自体は小錦八十吉引退時を最後に行われておらず、その後は日馬富士、鶴竜、照ノ富士の横綱力士碑刻名式の際にそれぞれ刻名されている。
また同所には、巨人力士身長碑、巨人力士手形・足形碑、強豪関脇力士碑、釈迦ヶ嶽等身碑も建てられている。巨人力士身長碑には江戸時代からの長身力士12人の名前と身長が刻まれている。強豪関脇力士碑は1957年に建立され、ここには江戸時代から昭和までの最高位が関脇だった神風、力道山[6]、北の洋ら約50人の四股名が刻まれている。彼ら以降にも上位キラーと呼ばれた関脇力士は多数存在するが、新たに刻まれてはいない。
脚注
- 小錦の出身地は、同郷の曙太郎、武蔵丸光洋(横綱力士碑に「ハワイ」)と異なり「米国」と刻印。
- “大関力士碑”. 富岡八幡宮. 2012年11月16日閲覧。
- ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年11月号(九州場所展望号) 27頁
- 看板大関として初土俵を踏んだあと、関脇以下の地位におりて実際に相撲を取った力士はその実績によっては刻名されている。また、大渡門太夫のように1場所番付に載っただけ(1敗7休)の事実上の看板大関の名もある。
- 現役力士の場合、横綱に昇進する可能性がゼロとは言えないため。完成時に刻名されていた増位山太志郎まで(実質的には7人後の貴ノ浪貞博まで)は並びが昇進順。昭和期に昇進した最後の最高位大関・小錦と平成期に昇進した最初の大関・霧島一博は、霧島が先に引退・刻名されているが、並びは小錦が先(霧島の四股名の手前には「平成期」と刻まれている。霧島の刻名時点で大関から陥落して現役を続けていた小錦のスペースは空けてあった)。照ノ富士の横綱力士碑刻名式の際に刻名された琴奨菊和弘と豪栄道は、昇進は琴奨菊、引退は豪栄道が先だが、序列は昇進順になっている。
- 出身地は刻印されていない。
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