大村英之助
大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 - 1986年3月23日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。
おおむら えいのすけ 大村 英之助 | |
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生年月日 | 1905年10月13日 |
没年月日 | 1986年3月23日(80歳没) |
出生地 | 北海道 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 映画プロデューサー、実業家 |
ジャンル | 日本映画 |
活動期間 | 1929年 - 1984年 |
著名な家族 | 大村卓一(父) |
1935年、芸術映画社社長[1]となり、文部大臣賞を受けた石本統吉監督の記録映画『雪國』、瀬尾光世監督・撮影の長編アニメーション映画『桃太郎の海鷲』のプロデューサーとしても知られる。戦後も1961年、持永只仁、松本酉三とともに、人形アニメの会社「MOMプロダクション」(後にビデオ東京プロダクションに再編)を設立[2]。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞した[3]人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当した[4]。
一方、東京帝国大学経済学部在学中に日本共産党に入党し、地下活動に入り、何度も検挙[5]され、戦後は一時、日本共産党の文化部長を務める。1950年、共産党が分裂した後、地下組織の財政担当者となったとされる[5][6]。また、北朝鮮を「労働者の天国」として描いた宮島義勇監督の記録映画『チョンリマ(千里馬)』のプロデュースを担当した。
経歴
マルクスボーイとして
芸術映画社(GES)創業、文部大臣賞受賞
『桃太郎の海鷲』と芸術映画社の終焉
戦後の混乱期
人形アニメ製作から晩年へ
- 1961年、戦前の芸術映画社時代の部下である持永只仁、松本酉三とともに、人形アニメの会社「MOMプロダクション」設立[2]して、米ランキン=バス・プロダクションの下請けを行う。岡本忠成も入社。
- 1964年、北朝鮮を取材した宮島義勇監督の記録映画『チョンリマ(千里馬)』(チョンリマ製作委員会=共同映画)[13]をぬやまひろし、松本酉三と共同で製作。
- 1971年、「MOMプロダクション」の後身であるビデオ東京プロダクション(河野秋和代表取締役)製作の人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞した。
- 1980年、『文化評論』誌(新日本出版社)5月号にエッセイ「本郷新と私」を寄稿[14]。
- 1984年、野村企鋒監督の自由民権百周年記念映画『秩父事件—絹と民権』(青銅プロ)を監修[5]。
- 1986年3月23日、死去。
出典
- ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平 Ⅱ 教育映画・文化映画・ドキュメンタリー映画——第二次大戦の終わりまで(承前) 2 戦時短編の思想——「映画法」と「文化映画」
- shumi-shumi
- てんまのとらやん
- 短篇調査団 SHORTFILM RESEARCHERS
- 現代日本人名録 物故者編
- いわゆる「トラック部隊」の初代の責任者とされ、ソ連のスパイ、ラストヴォロフから資金を得ていたともいわれる。
- 増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)
- 民芸運動と雪調との歴史 年表 積雪地方農村経済調査所
- テロに倒れた映画監督を、待っていた女優 田村志津枝
- 朝日映画社(1943年7月27日改称)
- 放送の歴史「放送法制定までの経緯」1945〜50
- ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平 Ⅲ 占領下の民主化と短編映像——文化映画から新しい教育映画へ(承前) 2 戦後短編映画業界の形成——経験者たちと新しいプレーヤーの出会い
- 北朝鮮礼賛映画とされる。2005年に北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会による再検討が行われている。カルメギ67号参照。
- 書誌情報
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