大政翼賛の歌
概要
1940年(昭和15年)に発足した大政翼賛会によって主催し公募された。
詞は長野県の教員だった山岡勝人、曲は鷹司信輔公爵の嫡男で当時中学5年生だった鷹司平通[1]の作品がそれぞれ選ばれた。編曲は童謡『めんこい仔馬』などの作品で知られる仁木他喜雄が行った。国民歌謡の後身、われらのうたによって流されて大ヒットした。また、日本を代表する大手レコード会社が競作した。
戦後、作曲者の鷹司平通は、1950年(昭和25年)に昭和天皇の第三皇女孝宮和子内親王と結婚した。和子内親王の弟継宮明仁親王の家庭教師だった米国人作家E・G・ヴァイニング夫人は著書『皇太子の窓』(原題:Windows for the Crown Prince)において、平通の作曲家ぶりについて「学生時代の作品の一つはコンクールに入賞して、日本中の子どもたちが歌ったものだという」とし、当時初等科6年生だった孝宮も、将来の夫が作った作品とは知らずにその曲を覚えたと、タイトルに触れず本曲を紹介した[2]。
また、海軍軍楽隊の斉藤丑松はこの曲をトリオに入れた行進曲を作曲し、行進曲「大政翼賛」として陸軍戸山学校軍楽隊が演奏し発表された。
吹き込み歌手
脚注
- 1941年3月2日 朝日新聞「「翼賛の歌」当選曲決る 中学生に栄冠/当選は鷹司公令息」
- ヴァイニング 2015 p.414
参考文献
- E・G・ヴァイニング 著、小泉一郎 訳『皇太子の窓』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年4月20日。ISBN 978-4168130441。 ※原著初版は1951年
外部リンク
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.