大戸清上
経歴
承和元年(834年)正月に仁寿殿で行われた内宴で内教坊が歌舞を奏するが、清上は横笛に優れるとして叙位を受けて外従五位下となる。同年12月に雅楽笙師・大戸朝生ら一族12人とともに大戸首から良枝宿禰に改姓した。のち第19次遣唐使において遣唐音声長となり、承和3年(836年)には遣唐画師となった朝生らとともに、本居を河内国から右京七条二坊に改める。数度の渡航失敗を経て承和5年(838年)渡唐し、翌承和6年(839年)帰途に就くが、清上の乗る第2船は逆風に遭って南海の島に漂着してしまい、清上は現地の賊により殺害された[4]。
人物
特に笛を得意とし、音律調弄全てその妙を極めたとされる[4]。雅楽曲作品に『秋風楽』『海青楽』『壱団嬌』『拾翠楽』『感秋楽』『承和楽』などがある。清瀬宮経(宮継)から笛を学び、弟子に和邇部大田麻呂[4]・源信・源生・勝弟扶・秦庭経・常世弟魚・出雲真長がいる[5]。
官歴
『続日本後紀』による。
脚注
- 『新撰姓氏録』河内国皇別
- 佐伯[1994: 117]
- 太田[1963: 1299]
- 『日本三代実録』貞観7年10月26日条
- 『新撰楽譜』
参考文献
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