多賀秀種
多賀 秀種(たが ひでたね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。堀秀重の次男。
凡例 多賀 秀種 | |
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時代 | 戦国時代後期 - 江戸時代初期 |
生誕 | 永禄8年(1565年) |
死没 | 元和2年(1616年)11月 |
改名 | 堀秀家(初名)→堀秀種→多賀秀種 |
別名 | 源助(通称)、鴎庵(号) |
官位 | 従五位下、出雲守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 堀秀政→豊臣秀長→秀吉→堀秀治→忠俊→前田利常 |
氏族 | 堀氏→多賀氏 |
父母 |
父:堀秀重、母:不詳 養父:多賀貞能 |
兄弟 | 堀秀政、秀種、堀利重、堀三政、生駒一正室、堀直重正室 |
妻 | 多賀貞能娘 |
子 | 秀誠 |
生涯
近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の国人・多賀貞能の婿養子となるが、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して明智光秀に与したため改易となり、兄・秀政の家臣となり、8,000石を領した。兄の留守中に長く佐和山城の城代を務めた。
秀政の死後、豊臣秀長、豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、文禄・慶長の役などに従軍。大和神楽岡で2万石を領すが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、大津城攻めに加わったため、再び改易された。甥の堀秀治を頼ったものの、慶長15年(1610年)、忠俊の代に堀氏も改易され、再び浪人となる。慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると、前田氏に属して戦功を立て、前田利常に6,000石で召し抱えられた。
子孫は加賀藩人持組として5千石を知行。数代後の幕末期の当主であった直昌は、茶道宗和流金森家に跡継ぎがいなくなった際に推挙され、隠居してこれを継承し、茶道に専念した。
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