城原神社

城原神社(きばるじんじゃ)は、大分県竹田市米納に鎮座する神社である。城原八幡社とも呼ばれる。旧社格県社

城原神社
所在地 大分県竹田市米納1048
位置 北緯32度59分24.2秒 東経131度20分15.5秒
主祭神 景行天皇神功皇后応神天皇八幡神)、比売大神、他二神
社格 県社
創建 応神天皇2年(391年
例祭 10月中旬の日曜
主な神事 城原神楽
地図
城原神社の位置(大分県内)
城原神社
城原神社

沿革

日本書紀』によれば景行天皇が景行天皇12年(伝82年)に熊襲征討の折り、碩田国(現在の大分県)に巡行し土蜘蛛を討った際に城原に行宮を置いたとされる。社伝では、当社は応神天皇2年(391年)に行宮跡(城原八幡社上松原社地)に祠を設けたことに始まるとされる。天安元年(857年)には、八幡神が顕現したため、国司豊後守石川宗継が殿宇を造営してて八幡神を配祀し、城原八幡社と称するようになったと伝えられる。また、源為朝が荒廃した当社を再興し、その際に社殿を東面させたとも言われ、通常の神社建築では社殿が南面するのに対して、当社は現在の社殿も東面している。建久7年(1196年)に大友能直が豊後国に入国すると、豊後八幡七社のひとつとして大友氏の庇護を受けた。

天正14年(1586年)、島津軍が豊後国に侵攻した際(豊薩合戦)に焼失した。その際、八幡神は宮司によって産山村(熊本県産山村)隠川へ奉安されたが、文禄3年(1594年)に中川秀成岡藩に移封されて竹田に入ると、当社を勝山に遷座して岡の総鎮守となし、勝山は八幡山と呼ばれるようになった。さらに慶長元年(1596年)には、霊験により城原の現在地に遷座するとともに、城原の旧地を松原となした[1] [2][3][4]

社殿

現存する拝殿、申殿及び本殿は宝暦12年(1762年)に建立されたものである。拝殿は桁行7間、梁行2間、の入母屋造。申殿は正面3間、側面3間の入母屋造で正面に軒唐破風を備えている。本殿は3間社で、流造、銅板葺。神楽殿は3間半の入母屋造で、棟には嘉永6年(1853年)建立の墨書きが残っている。楼門には文久2年(1862年)の棟札があったが、昭和60年(1985年)に放火の被害を受け、平成2年(1990年)に再建されたものである[1][4]

祭礼

10月中旬の日曜に秋季大祭が行われる。前夜には夜神楽があり、竹田市指定無形民俗文化財の城原神楽が奉納される[5]

文化財

社殿
社殿(本殿・申殿・拝殿)は、1979年(昭和54年)4月1日に竹田市の有形文化財に指定されている[6]。なお、楼門は指定後に焼失し、再建されている。
社叢
境内の樹木は、「城原神社社叢」として1972年(昭和47年)4月1日に竹田市の天然記念物に指定されている[6][7]。また、大分県の特別保護樹林にも指定されている[1]。社叢には32科57種の植物が見られる。
木本植物の大部分は遷宮(慶長元年(1596年))後に植栽されたものであるが、上宮に通ずる参道の並木と類推されるものは、遷宮より遡る時代のものである。この並木は主にスギであるが、ケヤキイチョウもそれぞれ1本残っている。このうち、平成2年(1990年)に落雷のため伐採されたスギは、樹高37mで伐根の年輪は650を数えたとの記録があり、これと同時代のものと考えられるスギは1本が現存し、伐根4本が残っている。ケヤキは遷宮の際にはすでに巨木であったと伝えられる。イチョウは昭和60年(1985年)の楼門の放火の際に類焼の被害を受け、さらに平成3年(1991年)の台風第19号でもダメージを負っている。
阿鹿野獅子舞
雌雄の獅子が神輿の先伴をする獅子舞。大分県の無形民俗文化財に指定されている[7]
城原神楽
竹田市指定無形民俗文化財。

交通

脚注

  1. 特別保護樹林一覧 大分県
  2. 城原神社 日本一の「おんせん県」大分県の観光情報公式サイト(ツーリズムおおいた)
  3. 城原神社 タケタン!(竹田市観光ツーリズム協会)
  4. 竹田市歴史的風致維持向上計画 第2章 竹田市の維持向上すべき歴史的風致 (PDF) 竹田市、2014年4月
  5. 城原八幡社秋季大祭 タケタン!(竹田市観光ツーリズム協会)
  6. 竹田市指定文化財一覧表 (PDF) 竹田市
  7. 竹田市歴史的風致維持向上計画 第1章 竹田市の歴史的風致形成の背景 (PDF) 竹田市、2014年4月
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