唐人親広
唐人 親広(かろうど ちかひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・炮術師。姓は加老戸とも。
凡例 唐人親広 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 親広→清房 |
別名 | 加老戸親広 |
官位 | 式部大輔 |
主君 | 神保氏→上杉謙信→椎名小四郎→上杉景勝 |
氏族 | 唐人氏 |
子 | 丹後守広親(守広、秀政) |
略歴
唐人氏は越中国新川郡小出城主という。その姓から祖は渡来人とも、伊勢長島の出身との推論もあるが定かではない。
尻垂坂の戦い
詳細は「尻垂坂の戦い」を参照
元亀3年(1572年)、『見聞雑録』によれば、親広は神保氏に仕えていたが、加賀一向一揆勢が富山城を攻めた時、一揆方が恩賞をもって誘い、親広はこれに乗って内応し城が落ちたという。これは状況からみて元亀3年(1572年)の尻垂坂の戦いの時と思われるが、真偽は不明。
上杉謙信の死去と織田家の侵攻
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると織田氏に寝返り、同じく織田氏に降った椎名小四郎の配下となる。その後、神保長住が親広を家臣に迎えようと引き抜きを図り、柴田勝家が両者を仲裁している。
安土桃山時代
直江兼続抱えとして勝山城(落水城)に在番している。天正16年(1588年)正月、主君の上杉景勝他22名と連歌会に出席して一首を詠んでおり、風流にも心得があった。この頃には諱を「清房」と変えている。 慶長5年(1600年)以前に越後にて死去という。
また、親広は岸和田流炮術の炮術師で、上杉家の炮術指南役となり、『私伝之集』を著し、その秘術は息子広親、さらに代々式部を名乗る門弟に伝えられた。
脚注
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