周栄
経歴
章帝のときに明経に挙げられ、司徒の袁安の府に召し出された。袁安が竇景や竇憲による北匈奴への干渉を批判する上奏をおこなったとき、その上奏文は全て周栄の起草したものであった。竇氏の客である太尉掾の徐齮はこれを憎んで「君は袁公の腹心として竇氏の排除を画策しているが、竇氏の刺客は城中に満ちているぞ。せいぜい備えることだな」と周栄を脅したが、周栄は「わたしは江淮の孤生であり、先帝の大恩を被り、2城の宰を歴任しました。いままた司徒府に仕える宰士の役目を得たからには、たとえ竇氏に害されるようなことがあっても、誠に光栄なことであります」と答えた。このため周栄はもし禍に斃れても通夜を行わないよう妻子に言い含め、朝廷に骨を埋める覚悟を示した。
竇憲一族が粛清されると、周栄は以前のことから名を知られるようになり、郾県県令から抜擢されて尚書令となった。後に潁川太守として出向した。法に触れて罪に問われ、獄に下されるべきところを、和帝は周栄の忠節を思って、共県令に左遷させるにとどめた。1年あまり後、山陽太守として復活した。
郡県の官を歴任し、後に老病を理由に引退を願い出て、家で40歳という若さで死去した。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻45 列伝第35
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