古河公方館
古河公方館(こがくぼうやかた)は茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館。鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれる。古河御所と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。
(茨城県) | |
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古河総合公園内にある「史蹟 古河公方館址」碑 | |
別名 | 鴻巣御所・鴻巣館 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 足利成氏 |
築城年 | 享徳4年(1455年) |
主な城主 | 足利成氏、氏姫 |
廃城年 | 寛永7年(1630年) |
遺構 | 堀、土塁 |
指定文化財 | 茨城県指定文化財(史跡) |
位置 | 北緯36度10分36.11秒 東経139度41分57.82秒 |
地図 |
古河公方館 |
概要
享徳4年(1455年)、享徳の乱の際に、初代古河公方の足利成氏により築かれたと考えられている。古河城本丸から南東へ1km程度離れた鴻巣の地にあり、御所沼に突き出た半島状台地に築かれた連郭式の中世城館である。天正18年(1590年)には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。寛永7年(1630年)に、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、時宗十念寺の寺域となる。現在、当時の建築物は残されていないが、城跡の大半とその周辺は古河総合公園として整備されている。
歴史・沿革
『鎌倉大草紙』[1] 享徳四年(1455年)六月の条に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立、……」とあることから、享徳の乱において鎌倉から下総・古河に移座した初代古河公方・足利成氏により築かれたと考えられている。長禄元年十月には「下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあるので、成氏は2年間程度本館を御所としたのち、立崎の古河城へ移ったことになる。[2]
その後は氏姫の時代まで史料が乏しい。当時は舟で往来可能だった古河城とあわせて、一つの広大な城域を形成していた[3]等の見方も示されている。なお、足利義氏についても、葛西城・関宿城・小金城・佐貫城・鎌倉への移座を重ねた末の永禄12年(1569年)に古河帰座を実現し[4]、本館を御所としたとする見解もある[2]が、根拠となった史料[5]は異なる解釈も可能なあいまいなもので[6]、検討の余地がある。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「古河城破却」(立ち退きの意か)令により[7]、氏姫は古河城から本館に移ってきた[8]。父の義氏は天正10年(1582年)[9]に没していたが、古河公方の後継者が定まらず、氏姫が古河足利氏を継承していた。[2][10][11][12]
天正19年(1591年)3月、秀吉は氏姫に対して、足利頼純の子である国朝との縁組を指示した[13]。頼純は、かつて古河公方と対立してきた小弓公方・足利義明の子であり、天文4年(1535年)の国府台合戦で小弓公方が滅びたのちは、安房国の里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は再び統一され、下野・喜連川の喜連川氏として江戸時代へ継承される。文禄2年(1593年)に国朝が病死した後は、引き続き弟の頼氏と氏姫との婚姻が成立し、二人の間に義親が生まれた。氏姫はその後も古河を離れず、義親夫妻とその子の尊信とともに、元和6年(1620年)に生涯を終えるまでを本館で過ごした。[10][11][12]
寛永4年(1627年)に義親が死去したのちは尊信が残っていたが、寛永7年(1630年)に喜連川にいた祖父の頼氏が死去すると、後を継ぐために古河を離れた。残された本館は時宗十念寺の寺域となる。[10][11][14]
構造
御所沼に向けて、東から西に延びる半島状の台地上にある。現地調査の結果、かつての城域は東西700m に及び、先端にあたる西側から順に、1曲輪(根城)(南北幅40m、東西長135~140m)、2曲輪(中城)(南北幅70~100m、東西長180m)、外郭(宿)(南北幅100~130m)の3区画が確認されている。各区画の間には空堀があり、堀の西側には土塁も設けて、東側からの来襲に備えていた。[15][16]
1曲輪は、本丸に相当すると考えられている[15]。現在は「公方様の森」と呼ばれる一角である[17]。
2曲輪には、昭和5年まで十念寺があった。現在は民家園(旧飛田家住宅、旧中山家住宅)がある。[15]
外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた[15]。現在は公園の外側である。
天然の水堀となった御所沼は、北側は虚空蔵菩薩の丘陵まで約150mの幅、南側も100~150mの幅をもち、駒ヶ崎・市立サッカー場の丘にまで延びていた[15]。西側はさらに渡良瀬川まで湿地帯が続き、北西に1km ほど隔てられた古河城ともつながっていた[18] 。
考古資料
作品
伝承
天神松と胞衣松
古河公方館(御所)があった半島状台地の西端には、現在、天神橋と名付けられた橋があり、その両脇には赤松の木が植えられている。橋の南側が「天神松」(てんじんまつ)、北側が「胞衣松」(えなまつ)である。館の主だった氏姫が足利義親を出産した際、足利の血を継ぐ男子誕生を喜び、御所の西北に天神のほこらを建てた。またその南側には胞衣(胎盤)を埋めて、それぞれに松の木を植えたと言い伝わる。なお、子の健やかな成長を願って胎盤を埋める風習は、近年まで日本各地で見られていた。このときの松を人々は「天神松」、「胞衣松」と呼んだ。200年後に鷹見泉石が作成した鴻巣村絵図にも、天神松と胞衣松が描かれており、長い間大切にされてきたことが分かる。2本の松は公園の造成が始まった1972年には残っていなかったが、故事にちなみ1996年に新しく植えられた。[19]
脚注
- 例えば、『古河市史 資料中世編』No.1522 など
- 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、65-68頁
- 鑓水柏翠(1986),158-159頁
- 『古河市史 資料中世編』No.1116「芹沢文書」、 No.1117, No.1118「喜連川文書」
- 『古河市史 資料中世編』No.1109「野田家文書」
- 西ヶ谷恭弘 「中世の古河城 ─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年、10頁
- 『古河市史 資料中世編』No.1490「喜連川文書」
- 『喜連川判鑑』の記述「氏女 ・・・姫君古河城ヲスベリ鵠巣ヘ移住・・・」による(『古河市史 資料中世編』No.1541にも所収)
- 三島暦 閏12月20日。京暦では天正11年。
- 『古河市史 通史編』、222-230頁
- 佐藤博信(1989)、175-191頁(古河氏姫に関する考察)
- 『戦国人名辞典』の見出し「氏姫」の解説
- 『古河市史 資料中世編』No.1499「喜連川文書」
- 江戸時代後期にさかのぼった周辺地域の景観は、「鴻巣村絵図」(古河歴史博物館蔵鷹見泉石関係資料)を参照(群馬県立歴史博物館 2011, p. 10(写真掲載))
- 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、68-71頁
- 西ヶ谷恭弘(1992)、62-65頁(室町時代の城館 ─伝・古河公方館をめぐって─)
- 古河総合公園公式ホームページ
- 例えば、中村良夫・他(2005)、211頁の図2、229頁の図6 (九章 古河公方の天と地、あるいは乱の地文学)など
- 古河市公式サイト・広報「古河」No.68(2011年5月)・「パークライフ 古河公方にまつわる天神松と胞衣松」
参考文献
- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 資料中世編』 古河市、1981年
- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館 ─遺構調査・発掘調査報告書─』 古河市、1985年
- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
- 佐藤博信 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年
- 戦国人名辞典編集委員会 編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年
- 中村良夫・他 編 『地文学事始 日本人はどのように国土をつくったか』 学芸出版社、2005年
- 西ヶ谷恭弘 『復元図譜 日本の城』 理工学社、1992年
- 鑓水柏翠 『古河通史(上巻)』 柏翠会、1986年
- 群馬県立歴史博物館 編『関東戦国の大乱:享徳の乱、東国の30年戦争(第92回企画展)』群馬県立歴史博物館、2011年。
外部リンク
- 古河公方館跡(古河市公式サイト内)