卜静
生涯
少年の頃から博識で知られており、同郡の陸績・顧邵の名声には及ばなかったが、陸遜・張敦・吾粲と同じ名声を有した[2]。
のちに陸績は鬱林太守、顧邵は豫章太守、陸遜は丞相、張敦は海昏県令、吾粲は太子太傅となり、卜静は剡県県令になったという[3]。
卜静の死後、同じく呉に仕えていた徐陵が亡くなったとき、徐陵の小作人や田畑が他人に奪われるということがあった。その時、駱統は徐陵の遺族のために訴訟を起こし、既に亡くなっていた丁覧や卜静の遺族に与えられたと同様の優遇を与えてほしいと孫権に願い出ると、孫権はそれを許可した[4]。このことから、卜静は黄武7年(228年)以前に亡くなっていることがわかる[5]。
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