南条氏の当主・一族一覧
当主
2代当主 景宗
官位は宮内少輔。明徳2年(1391年)に相続、2代当主となった。伯耆民談記によると父・貞宗に劣らない武勇であったという。応永15年(1395年)、羽衣石に景宗寺を建立。永享10年(1438年)に75歳で死去。
3代~5代当主
南条氏の3代~5代当主については当時の文献が乏しく、実名が分かっていない。これについて1999年に発行された「南條氏盛衰記」は3代を教之、4代を元之、5代を政之として業績などを記しているが一般的にはこれを山名氏のことだとする説の方が有力である。
一族
尼子右衛門尉経時
南条貞宗の三男。東京大学史料編纂所が所蔵している「羽衣石南条系図」に記載されている人物。系図に「雲州尼子經久此末葉也」(原文)とある他は詳細不明。参考までにだが、父・貞宗が当初「尼子南条伯耆守」と名乗っていたとする説があり、尼子氏と南条氏の間に何らかの血縁関係が存在するのではないかとも言われている。
南条下総入道
大日本史料にみえる人物。応仁の乱頃に、伯耆国で山名兵部少輔元之と弟・小太郎が守護の山名政之に対して起こした反守護反乱に参加、文明13年(1481年)8月30日に戦死した。年代は5代目頃にあたり、南条一族としてはほぼ間違いないとされているがその他の詳細は不明。大日本史料にある文明13年9月12日の記述に「政之馳向及合戦、数ヶ所之城同廿八日晦日仁没落候、同日南条下総入道討捕候、元之以下作州江落行候」とある。(参考・岡村吉彦 「1 総論―戦国時代の伯耆地域における戦乱史」「2 中世史料にみる伯耆の城・要害」)
千代姫
南条元続の長女。南条元忠は弟にあたる。南条氏が関ヶ原の戦いで西軍に与し敗れ改易された後、因幡国気多郡鹿野へ家臣と共に逃れた。その地で帰農して慶長19年(1614年)7月23日に40歳前後で死去したとされている。鳥取市鹿野町広木には千代姫のものと伝えられる墓があり、その周りを家臣の墓が取り囲むようにして並んでいる。(参考・南條氏盛衰記)
南条彌太郎兼保
南条元続の長男。南条氏系図には元続の長男は夭折したとされているが「南條氏盛衰記」によると元亀元年(1570年)に生まれた兼保を人質として毛利氏にとられるのを避けた元続が家臣と共に伊予国朝倉村に隠したとしている。兼保はその地で霊仙山城の中川山城守の客将として迎えられ慶長18年(1613年)3月15日に死去した。
参考文献
- 東郷町誌編纂委員会 『東郷町誌』
- 松岡布政原著・音田忠男訳 『伯耆民談記』
- 南條氏顕彰会 『南條氏盛衰記』 1999年
- 鳥取県教育委員会 『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』 2004年
- 南条下総入道の項で記した岡村吉彦の論文を掲載。