半音階的幻想曲とフーガ

半音階的幻想曲とフーガ: Chromatische Fantasie und Fugeニ短調 BWV 903は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲したクラヴィーア曲。バッハのクラヴィーア独奏作品のなかでもとくに人気のある作品のひとつである[1]

概要

自筆譜は現存しておらず作曲時期は明確ではないが、ヴァイマル時代(-1717年)もしくはケーテン時代(1717年-1723年)に書かれ、1730年前後に改訂が加えられたものと考えられる[2][3]。新・旧のバッハ全集に、1720年頃の成立と推定される幻想曲の異稿がBWV 903aとして収録されている[3]。ヴォルフガング・ヴィーマー(Wolfgang Wiemer)は、1720年の妻マリア・バルバラ・バッハの死に際して書かれた「トンボー」と解釈しているが、確かな根拠はない[4][2]

新バッハ全集では40以上の資料が挙げられている[5]ように、バッハの生前から評価されて[6]死後も影響力を保ち、すでに18世紀中にはウィーンフランスイタリアなど各地で知られていた作品であった[3]。息子のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハヴィルヘルム・フリーデマン・バッハによるファンタジア群、のちの「多感様式」との類似が指摘されることもある[7]

19世紀に入っても人気は続き、1819年出版の、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの指示を記したと称する版をはじめ、カール・チェルニーハンス・フォン・ビューローなどが校訂版を発表している[8]。またルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1810年に筆写をおこなっている[9]ほか、フェリックス・メンデルスゾーンジギスモント・タールベルクフランツ・リスト[10]ヨハネス・ブラームス[11]などが演奏した記録が残っている。ヨハン・ニコラウス・フォルケルは「唯一の存在で、これに類したものは他に一曲もない」と評し[1]、アルンフリート・エードラー(de:Arnfried Edler)は「非常に多種多様な構成上・表現上の諸要素が、これほどまでの説得力をもって一つにまとめあげられたことは」並ぶ例がないと述べている[6]

楽曲

「幻想曲」と「フーガ」と題された2つの部分からなり、演奏時間は約12分[12]

ロマン的で即興的な[1]幻想曲は、属調へと向かっていく前半と、「レチタティーヴォ」と記され主調に戻っていく後半とに分けて理解することができる[13]。前半は様々なフィギュレーションで構成された華麗なトッカータ様式で進んでいく[12]

後半のレチタティーヴォでは、マルティン・ゲックが「見事にしつらえられた一種の和声の迷路」[6]と呼ぶように半音階的なきわめて激しい転調が繰り返される。フォルケルは、バッハが即興をおこなう際に「24すべての調」を自然に通過していったと記し、「転調におけるぎこちなさについて、彼は何一つ知らなかった。(...)彼のいわゆる半音階的幻想曲は、私がここで言っていることを証明してくれる」と述べている[14]。このレチタティーヴォ部分は、バッハがヴァイマル時代に編曲した(BWV 594アントニオ・ヴィヴァルディヴァイオリン協奏曲グロッソ・モグール」第2楽章との関連が指摘されている[15]

幻想曲冒頭

 \new Staff {\time 4/4 \key a \minor \set Score.tempoHideNote = ##t \tempo "" 4=72 \relative c'
{r32 d( e f g a b cis) d( c bes a g f e d) cis( d e f g a bes e) r4 \noBreak
r16 a,32( b! cis d e f g f e d cis b a64 g f e) d32( e f a cis d f16) r4 }
}

フーガは半音階的な主題にもとづく三声のもので、フリードリヒ・ヴィルヘルム・マルプルクは著書『フーガ論』("Abhandlungen von der Fuge")のなかで、ジローラモ・フレスコバルディの「半音階的リチェルカーレ」("Recercar cromaticho post il Credo")と並べて取りあげている[16]

ゲックは「『フーガ・パテティコ(荘重フーガ)』として、《幻想曲》と調子を合わせる」と、また幻想曲と比較して「客観化への契機であり、幻想曲の苦悩に満ちた調子を弱める働きをする」[17]と述べるが、主題の扱いはかなり自由であり、技巧的で長い間奏部や、終盤の左手に現れるオクターヴ奏法のように表現的な書法も依然としてみられる[18]。幻想曲と同様に遠隔調への転調がおこなわれるものの、現れるのは短調に限られている[19]

フーガ冒頭

 \new Staff {\time 3/4 \key d \minor \set Score.tempoHideNote = ##t \tempo "" 4=100 \relative c''
{a4 bes b c c8 b c4 e, f fis g g8 fis g a bes4 a g f g8 f e d e4 a, cis d8 d16 e f8 f16 g a8 a16 b}
}

編曲

低音の補強などの演奏上の改変を楽譜に加えることは19世紀から多く例がある[10]が、フェルッチョ・ブゾーニ1902年におこなった現代ピアノのための改変は「編曲」としてBV B 13の整理番号が与えられており、またブゾーニはチェロとピアノのための編曲(BV B 38)も残している。他にはレオニード・クロイツァーによる現代ピアノのための改変(幻想曲のみ)[20]マックス・レーガーによるオルガンのための編曲、ラウル・ソーザ(Raoul Sosa)によるピアノの左手のみのための編曲、ゾルタン・コダーイによるヴィオラのための編曲(幻想曲のみ)などがある。

注釈

  1. シューレンバーグ 2001, p. 211.
  2. ゲック 2001, p. 45.
  3. Tomita, Yo (2000). J.S.Bach: Fantasias & Fugues. Masaaki, Suzuki. BIS. pp. 4–5. BIS-CD-1037。
  4. シューレンバーグ 2001, p. 218.
  5. Schulenberg, David (2006). The Keyboard Music of J.S. Bach (Second ed.). Routledge. p. 147
  6. ゲック 2001, p. 46.
  7. シューレンバーグ 2001, p. 211-212.
  8. シューレンバーグ 2001, p. 212.
  9. ゲック 2001, p. 49.
  10. Dirst, Matthew (2012). Engaging Bach: The Keyboard Legacy from Marpurg to Mendelssohn. Cambridge University Press. pp. 153-156
  11. Musgrave, Michael, ed (1999). The Cambridge companion to Brahms. Cambridge University Press. p. 39
  12. 礒山雅、鳴海史生、小林義武 (1996). バッハ事典. 東京書籍. p. 370
  13. シューレンバーグ 2001, p. 214.
  14. ゲック 2001, p. 47.
  15. シューレンバーグ 2001, pp. 215–216.
  16. シューレンバーグ 2001, p. 213.
  17. ゲック 2001, p. 52.
  18. 門馬直美「半音階的幻想曲とフーガ」『作曲家別名曲解説ライブラリー12 バッハ』音楽之友社、1993。p. 307
  19. シューレンバーグ 2001, p. 219.
  20. 『芸術としてのピアノ演奏 : ピアノ奏法の新しい美学』(音楽之友社、1969年2月刊)の巻末に付録として収録。

参考文献

  • デイヴィッド・シューレンバーグ (2001). バッハの鍵盤音楽. 佐藤望、木村佐千子 訳. 小学館
  • マルティン・ゲック (2001). ヨハン・ゼバスティアン・バッハ. 3. 鳴海史生 訳. 東京書籍
  • (score) Wolf, Uwe, ed (1999). Bach, Johann Sebastian: Chromatische Fantasie und Fuge d-Moll BWV 903. Bärenreiter

外部リンク

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