加納城
加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった日本の城である。
(岐阜県) | |
---|---|
加納城跡(本丸石垣・堀跡) | |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | 御三階櫓(独立式層塔型3重4階(1602年)非現存) |
築城主 | 奥平信昌 |
築城年 | 慶長7年(1602年) |
主な城主 | 奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣、堀跡 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯35度23分58.58秒 東経136度45分37.22秒 |
地図 |
加納城 |
構造
加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約550メートル、東西約400メートル[1])であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、少なくとも北堀は障子堀であった[2]。外堀は東側が荒田川、北側が清水川、西側が長刀堀[* 1]であり、南側の外堀は加納中学校付近にあった。主要な部分は本丸を中心に、東に二ノ丸、北に厩曲輪・三ノ丸、南に大藪曲輪があった。この城の石垣には加工するにはあまり適さないチャートが使われている。
歴史・沿革
前期加納城
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。しかし、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。
後期加納城
関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城の櫓や石垣が用いられ、近くの革手城からも土砂などが用いられた。解体した岐阜城天守の部材を二ノ丸御三階櫓に転用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。
寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井直陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。
近代
明治4年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれたが、同年11月に岐阜県へ合併した。翌、明治5年(1872年)、廃城令により城は廃城処分となり建物は破却。城門などは売却された。明治33年(1900年)、岐阜県師範学校が跡地に置かれ、本丸跡を運動場とした。明治39年(1906年)三の丸跡に加納尋常小学校が移転される。昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に加納城跡として国の史跡に指定された。
近年の発掘調査で枡形や前期加納城の土塁・礎石の跡、埋没した石垣や井戸跡、多くの土器などが出土した。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に石垣、堀跡などがわずかに見られるのみである。
現存建物
脚注
注釈
- 東外堀は現在の加納長刀堀に当たる。
出典
- 発掘(2010) p.3
- 発掘(2010) p.10
- 加藤理文・松岡敏郎ら8名執筆 学習研究社編『歴史群像特別編集 【決定版】図説 よみがえる名城 白亜の巨郭 徳川の城』学習研究社、2008年
- 『御三階櫓野絵図集ノ平』1728年 片野記念館蔵
- 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社、1996年
- “中山道鵜沼宿 › 鵜沼宿探訪 › 旧大垣城鉄門”. 各務原市. 2018年9月16日閲覧。
- 各務原の「安積門」は大垣城鉄門の可能性 - ウェイバックマシン(2009年5月12日アーカイブ分)、2009年5月9日付、岐阜新聞。
参考文献
- 『加納城跡の発掘 : 発掘22年の成果』岐阜市教育委員会、2010年。全国書誌番号:22711393 。