出海村
出海村(いずみむら)は、1954年(昭和29年)まで愛媛県喜多郡にあった村であり、現在の大洲市の北西端、伊予灘に面した農漁村であった。
いずみむら 出海村 | |
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廃止日 | 1955年1月1日 |
廃止理由 |
新設合併 喜多灘村・長浜町・櫛生村・出海村・大和村・白滝村 → 長浜町 |
現在の自治体 | 大洲市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 |
四国地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 喜多郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,224人 (1921年) |
隣接自治体 | 櫛生村・磯津村・日土村 |
出海村役場 | |
所在地 | 愛媛県喜多郡出海村 |
座標 | 北緯33度33分29秒 東経132度26分02秒 |
ウィキプロジェクト |
地理
現在の大洲市の北西端部。北西は伊予灘に面している。背後には山が迫り、南に耳取峠を境として日土村と接する。東は鶴首峠を境として大和村豊茂に接する。海岸線に沿って東に櫛生村、西に磯津村。当村の付近は中央構造線近くの断層崖海岸が続き、平地は乏しい。中心に尾中川、土居川、野田川などの小河川により形成された三ケ月状砂浜が小規模ながら形成され、民家もこの付近に集中している。
歴史
古代 - 中世
戦国時代に水上城主であった兵頭石見守直政が、天正13年に豊臣秀吉の四国征伐に伴い、小早川隆景の軍勢によって開城され、当地の庄屋になったと伝えられる。
藩政期
明治以降
- 1875年(明治8年) - 泉学校開設
- 1889年(明治22年) 12月15日 - 市制・町村制実施により、出海村の一村がそのまま出海村として存続。喜多郡に属す。
- 1912年(大正元年) - 電灯ともる
- 1955年(昭和30年) 1月1日 - (旧)長浜町、喜多灘村、大和村、櫛生村、白滝村との合併により、新たな長浜町となる。
出海村の系譜 (町村制実施以前の村) (明治期) 町村制施行時 出海 ━━━━━━ 出海村 ━━━━━━━━━━━━┓ ┃(昭和30年1月1日) 長浜町 ━━━┫ 喜多灘村 ━━━┫━━ 長浜町 櫛生村 ━━━┫ 大和村 ━━━┫ 白滝村 ━━━┛ (注記)長浜町ほかの合併まで、および長浜町の平成の合併の系譜については、それぞれの町村の記事を参照のこと。
地域
集落は、出海の1つのみ。 中心部に行政施設、教育施設などがこぢんまりと立地している。東隣の櫛生村同様、明治の市制・町村制度施行の際にも一村がそのまま村となった。その後長浜町になっても大字として受け継がれた。平成の合併により大洲市となって、大字は省かれるようになった。
産業
- 商業
- 農業
- 漁業
医療
- 木下愛水(医師)[3]
出身者
脚注
- 『愛媛県会社並ニ工場通覧 昭和10年12月末日現在』愛媛県総務部統計課 編、1936年、28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月19日閲覧。
- 『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年、100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月17日閲覧。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923年、喜多郡きの部116頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月19日閲覧。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923年、喜多郡ひの部133頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月19日閲覧。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923年、喜多郡ひの部134頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月19日閲覧。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923年、喜多郡み、しの部127頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月19日閲覧。
関連項目
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