内藤興盛
内藤 興盛(ないとう おきもり)は、戦国時代の武将。守護大名大内氏の重臣。大内義興、義隆の2代に仕え、約半世紀にわたり長門国守護代、評定衆など重職を占めた。
凡例 内藤 興盛 | |
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内藤興盛像(善生寺蔵) | |
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
生誕 | 明応4年(1495年) |
死没 | 天文23年(1554年)[注釈 1] |
改名 |
仮名:彦太郎[1] 受領名:弾正忠[1]、左衛門尉[1] |
戒名 | 西方寺法誉知覚[1] |
墓所 | 善生寺(山口県山口市) |
官位 | 従五位下下野守[1] |
主君 | 大内義興→義隆 |
氏族 | 藤姓秀郷流内藤氏 |
父母 | 父:内藤弘春[1]、母:不明 |
兄弟 | 興盛、貞種[1] |
妻 | 正室:内藤弘矩の娘 |
子 | 隆時[2]、正朝[2]、隆春[2]、元貞[2]、元種[2]、山内元興[3][注釈 2]。、尾崎局(毛利隆元室)、問田殿(大内義隆側室)、女(宍戸元秀室) |
生涯
大内氏文武の要
伯父の内藤弘矩は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言により謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で弘矩の弟で興盛の父弘春が家督を継承することになる。興盛は弘矩の娘を娶り、内藤氏の当主となる。
義興に仕え、宿老として長門守護代を務めた。義興の上洛にも参陣し、享禄元年(1528年)に義興が死去した後は子の大内義隆に仕える。義隆の時代には家中随一の大身の重臣となった。評定衆を務め、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いには陶隆房(晴賢)らと共に援軍として派遣された。また、同11年(1542年)の月山富田城の戦いにも出陣し、菅谷口攻めを担当し毛利元就らと攻撃したが抜くことはできなかった。
逸話
大内家中では、武将・重臣としてとともに文化人、教養人としての信望が厚かったと言われている。近衛尚通に源氏物語の外題を請うたこともある。大内氏臣下の意見を当主に取り次ぐ役回りを務めるなど温厚な人柄で人望が高かったが、一方で大寧寺の変の時には義隆からの助命の要請を拒絶しており、乱世の厳しい主従関係がうかがわれる。
また、興盛自身は熱心な仏教徒であったと言われているが、フランシスコ・ザビエルが天文19年(1550年)と翌20年(1551年)にキリスト教布教のため山口を訪れた時、ザビエルらを屋敷によく招き、尽力して2度ともザビエルと義隆の面会を実現させた。さらに大寧寺の変の時はザビエル一行を自邸に保護するなど、ザビエルの庇護者としても知られる。
脚注
注釈
出典
- 今井尭ほか編 1984, p. 343.
- 今井尭ほか編 1984, p. 344.
- 『閥閲録』巻111「山内長五郎」
- 菊池浩幸「戦国大名毛利氏と兵糧―戦国大名領国の財政構造の特質―」『一橋論叢』第123巻6号、2000年。/所収:村井 2015
参考文献
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