八田竹男
来歴・人物
大阪府の生まれ。旧制北野中学校(現大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院を経て、早稲田大学法学部中退[2]。俳優の森繁久彌とは北野中学時代からの同級生で同い年であり、早稲田時代には一緒に演劇に熱中した。
戦前の1937年、吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月、京都花月、なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた[3]。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。1986年、健康を理由に社長業を勇退。
関係項目・人物
- その他
- 林正之助
- 橋本鐵彦
- 林弘高
- 月亭可朝 - 可朝の弟子たちの命名に際してはすべて「八」ないしカタカナの「ハ」の字を付けている。これは、恩人である八田竹男に因むもの。
- 笑福亭仁鶴 (3代目)
- 桂文枝 (6代目)
- 横山やすし・西川きよし
- 劇場関係
脚注
- 『朝日新聞』1991年8月7日夕刊、第1面「八田竹男氏死去」より
- 『日経産業新聞』1982年5月28日、第28面「吉本興業――辻阪昌一専務、林英之常務(スポットライト)」
- 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
- “ステージレビュー「「吉本新喜劇」の始まりを内場と千原コンビで描く」”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2012年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月7日閲覧。
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