光永秀時

光永 秀時(みつなが ひでとき)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。

 
凡例
光永秀時
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 大永5年(1525年
別名 通称:新四郎[1]、三郎兵衛
官位 下総[1]中務少輔[1]
主君 毛利元就
氏族 坂氏
父母 父:坂広秋[1]
兄弟 坂広明[1]坂広時[1]秀時
志道元良[1]赤川房信
元方

生涯

坂氏安芸国戦国大名毛利氏の庶流[1]

坂広秋の三男として誕生。成人の後に毛利氏家臣として働き、大永3年(1523年)に毛利元就が家督を継承した際には、その家督相続推進役の一人となった。一門の坂広秀らが、この家督相続に不満を抱き、相合元綱を擁立して叛旗を翻すが、秀時はこれに同調せず、元就に従った。その後、毛利氏が尼子氏の傘下に入ると、人質として赤川就秀らと共に月山富田城に送られた。

大永5年(1525年)、毛利元就は尼子氏との手切れを決意。秘密裏に月山富田城内の人質に逃亡するように連絡をし、秀時らは脱走。しかし、逃げる途上で追撃を受け討死した。逃げ延びた赤川就秀は月山富田城の詳細を元就に知らせ、後に毛利氏が月山富田城攻めの際に参考とされた。

家督は嫡男・元方が継いだ。子孫は長州藩大組士(禄高200石)として続いた。

脚注

    出典

    • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060国立国会図書館デジタルコレクション
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