優勝内国産馬連合競走

優勝内国産馬連合競走(ゆうしょうないこくさんばれんごうきょうそう)とは1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた日本の競馬の競走である。

優勝内国産馬連合競走(1911年)
競馬場 東京競馬場(目黒競馬場)(1911年)
創設 1911年
距離 芝2マイル(約3200メートル)→3200メートル
賞金 1着賞金3,000円(1911年)
出走条件 前季の各競馬倶楽部の出走新馬かつ優勝戦の1、2着馬
負担重量 馬齢
※牝馬は3ポンド減量(1928年以降は1キログラム)

当時の日本国内最高賞金の競走で、現在の天皇賞のルーツの一つである。

概要

優勝内国産馬連合競走[1][2][3][4]は、3200メートル(=約2マイル)で行なわれていたことから連合二哩(れんごうにまいる)や連合競走、あるいは単に連合とも通称されていた。

日本各地の競馬倶楽部のチャンピオンだけが一生に1回だけ出走できるという点で後に創設される東京優駿大競走(現・東京優駿(日本ダービー))の前身であり、春秋1回ずつ3200m(当時)で行なわれる「日本一の名馬決定戦」という点で後の天皇賞(1937年(昭和12年)秋以降の帝室御賞典)の前身である。

歴史

背景 - 国策競馬と馬券の禁止

明治後期に盛んになった競馬には「軍馬改良」という大義名分があった[1]。1899年(明治32年)の北清事変で日本馬が西洋列強のウマに著しく劣ることが明らかになり、1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治37年)の日露戦争でもそれが改善されていないことが問題となった[1]。そのため1906年(明治39年)に明治天皇勅令を発し、内閣馬政局を設けて馬産を推進することになった[1]

この1906年(明治39年)の秋に東京競馬会が東京競馬場(池上競馬場)で開催した競馬が大成功すると、すぐに日本各地に同様の競馬倶楽部が「雨後の筍のごとく[1]」乱立し、その数は200箇所以上にのぼった[1][4]。これらの中には運営に不正や不手際があったり営利主義に走るものが多く、あちこちで不正競馬に起因する騒動が起きて世間を騒がせることになった[4]

そもそも当時の法令では馬券の発売を許す根拠は無かった[1]。馬券を最初に発売したのは幕末から外国人が治外法権下で行っていた横浜競馬場だが、明治政府は長い間、これを事実上黙認してきた[1]。1906年(明治39年)に始まった各地の競馬も同様に「政府は馬券の発売を黙認する(黙許競馬)」ことで成り立っていた[1]。国会でもしばしば馬券は違法であると指摘する議員がいたが、軍馬育成の大義名分の前に黙殺されてきた。

1908年(明治41年)、社会の風潮が馬券の取り締まりに向かう中で、当時の第1次西園寺内閣から黙許を得て競馬が行われたのだが、7月に内閣が総辞職し、第2次桂内閣に変わった。この時入閣した岡部長職司法大臣は馬券反対派で、兵庫県で開催中の鳴尾競馬場へ官憲を派遣して馬券販売係を逮捕させた。ちょうどこの秋に実施される刑法大改定に合わせて、岡部司法大臣は競馬に対して強硬策をとり、陸軍を押し切って馬券の非合法として禁止することに成功した[1][4]。軍や競馬界を背景にもつ議員には、馬券禁止は政府の不法行為だと論陣を敷いたものもあり、1909年(明治42年)には馬券を合法とする法案が衆議院で可決されたが、貴族院の特別委員会で廃案とされてしまった[1]。この後、馬券が許可になるまでは長い年月がかかることになった[1]

創設 - 競馬不況と連合二哩創設

馬券の発売が禁止されるとすぐに、各地の競馬倶楽部は開催中止を余儀なくされ、次々と経営難に陥った[1][4]。一般に当時の競馬倶楽部は、希望者が一口500円などの出資金を収めて会員となり、これらを集めたものが運営に充てられていたが、それだけでは賞金には程遠いので、馬券の売上から賞金を捻出していた[1]。馬券がなければ賞金が出ず[注 1]、賞金がでなければ馬主は出走させないし出走できる見込みがなければ馬が売れないので、各地の馬産地は深刻な不況に見舞われることになった[4]

実際にこの時代には競走への出走する頭数が激減し、日本全体で1レースの平均出走頭数が2頭以下となった。つまり、ほとんどの競走では1頭しか馬が出走しないということになる。競馬開催の大義名分が軍馬改良であったのに1頭だけでの競走(単走)では馬の選別改良が進まないため、軍部を後ろ盾とする馬政局は競馬に補助金を出すことになった。この補助金で1911年(明治44年)秋に創設されたのが優勝内国産馬連合競走である[1]

成立 - 日本一の名馬決定戦

東京競馬場(目黒競馬場)で新たに創設された特殊競走「優勝内国産馬連合競走」は1着賞金3000円、2着1500円、3着500円で、当時の日本の競馬の最高賞金の大賞だった[1][2][注 2]。この頃の日本各地の競馬の賞金の年間総額は10万円(1910年(明治43年))で、1着賞金だけで年間の全賞金の3%に相当した[5]

当時の競走馬の価格が普通の抽籤馬で350円から400円、特別な優良馬で2000円程度であったが、この競走の創設によって産馬業界はにわかに活気付き、北海道では7〜8万円で取引される馬が出るほどになった[1][2]。また、創設以来、民間による新興の小岩井農場の生産馬が5連覇を果たし、同牧場の血統の良さをアピールした。

この競走に出走するには高い条件をクリアしなければならなかった。この頃、日本各地の競馬会では春季・秋季の2回の開催を行っていた。優勝内国産馬連合競走に出走できるのは内国産(日本産)の牡馬か牝馬で(去勢馬は不可)、前季の新馬戦でデビューした馬で、新馬戦を勝った馬だけで争われる優勝戦で上位2着までに入ったものに限定されていた[1][2]。これにより、秋の目黒競馬場には日本各地の新チャンピオンが集まり、その中で最良の馬を決定する「日本一の名馬決定戦」となった[6]。この競走に出走し入着を果たした馬は全国に名声を轟かしたと伝えられる[7]

拡大 - 春秋開催・東西開催

創設当初は年に1回、秋に行われていた優勝内国産馬連合競走は、1918年(大正7年)から春季・秋季の年2回開催となった[2]。出走条件には見直しがあり、1919年(大正8年)から「前季の新馬優勝戦の上位2着まで」から「前季新馬戦の1着のみ」となった[1]。競走は毎年たいへんな人気になり、1921年(大正10年)には、優勝馬には副賞として「花盛器」が授与されることになった[2]

1928年(昭和3年)にはメートル法が導入され、従来の2マイル(約3218メートル)から3200メートルに改められた。また、この年の大礼開催(後述)から競走名は各内国産馬連合競走に改められ、出走要件は「前季の新馬戦の上位2着」に緩和された[6]

補助金を出していた馬政局は1923年(大正12年)に農商務省に組み込まれ、さらに農商務省が農林省商工省に分割されて競馬は農林省の管轄になった。競馬の補助金も農林省が出しており、1932年(昭和7年)から競走名は農林省賞典競走となった[6]

関西連合

1923年(大正12年)にようやく競馬法が可決され、15年ぶりに馬券が復活した。

兵庫県阪神競馬倶楽部鳴尾競馬場)では長年にわたり馬政局へ関西での連合競走の創設を陳情していたが、1924年(大正13年)にこれが実現した[7]。全国優勝連合内国産馬競走[7]が行われることになり、各内国産馬連合競走として創設された[8]。一般には東京の連合競走と区別して阪神連合関西連合などと通称されていた。

関西での連合競走創設を受けて東京の優勝内国産馬連合競走の出走条件が変更になり、阪神の各内国産馬連合競走で優勝したものは、東京の優勝内国産馬連合競走には出走できないことになった。こうして「連合競走」は、東西それぞれのチャンピオン決定戦となった。

東京と同じように競走名はのちに各内国産古馬競走になり、さらに1932年(昭和7年)からは農林省賞典競走となった[6]

牝馬連合

京都の競馬会は当初、下京区島原で行っていたが、明治末に須知村(現在の京丹波町蒲生野付近)に移転した[3]。しかしここは京都の中心部から離れた山間部で、観客が少なかった。そのため、馬券が公認になると、淀川宇治川に挟まれた広大な湿地帯を借り、ここに京都競馬場を造営した[3]

この新しい競馬場での開催は1925年(大正14年)秋に始まると大変な賑わいになり、入場者・馬券の売上とも次々に記録を更新し、やがて日本で最も馬券の売上が多い競馬場となった[3]。しかし、京都競馬場には目玉競走といえるものが無く、長年にわたり帝室御賞典の下賜を請願していたがついに認められなかった。しかし、1928年(昭和3年)春から牝馬だけによる「連合競走」として各内国産牝馬連合競走が創設され、京都競馬場の初めての目玉競走となった[3]

一方、1926年(大正15年)暮れに大正天皇が没し、その喪が明けた1928年(昭和3年)秋に昭和天皇即位の礼が執り行われることになった。日本各地の競馬場では「大禮開催」と称して臨時の競馬が開催されることになった。京都競馬場では「大禮記念」として連合競走が開催された[3]。京都競馬場の連合競走は後にも先にもこの1回きりである[3]

この競走は1931年(昭和6年)に牝馬連合競走、1935年(昭和10年)秋に農林省賞典牝馬競走と改名された[3]。1938年(昭和13年)に各地の競馬クラブが統合され日本競馬会になった年には開催しなかったが、1938年(昭和14年)には2400メートルの四・五歳牝馬特別競走と形を変えて行われた。しかしこれは3年で廃止になった[3]

終局 - 帝室御賞典への統合

1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件と時局が進み、戦時体制が強化されると各地の競馬倶楽部も統一されて日本競馬会となった。

日本競馬会では全国の競走体系を再構築するにあたり、古馬の競走の頂点に3200メートルの高額賞金競走を置き、これを東京・阪神で年2回開催することとした。この競走には皇室から賞品が下賜され、競走の名称は帝室御賞典となった。この名称や皇室から賞品が下賜されるという特徴は旧来の帝室御賞典のものだが、距離や施行条件などは実質的に優勝内国産馬連合競走を承継している[9]

歴代優勝馬

  • 馬齢の表記方法は2001年以降の方式による。したがって当時の馬齢表記には、下表に1を加えたものとなる。
  • 馬主には仮定名称を含む。

東京

開催名施行日競走名開催地距離優勝馬性齢タイム優勝騎手管理調教師馬主
明治44年秋季1911年11月11日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルラングトン牡33:45.96伊庭野次郎箕田定吉
明治45年秋季1912年11月23日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルレッドサイモン牡34:03.37W.H.コツフヰーノーフォーク
大正2年秋季1913年11月22日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルシンコイワヰ牡44:03.10千歳孫作絹川安松
大正3年秋季1914年11月14日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルインタグリオ牡53:40.41千歳孫作絹川安松
大正4年秋季1915年11月27日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルトクホ牡33:43.60尾形景造平岡廣高
大正5年秋季1916年11月11日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルアフリカンダー牡54:02.90W.H.コツフヰー
大正6年秋季1917年11月17日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルピーターパン牡43:46.50W.H.コツフヰー
大正7年春季1918年5月11日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルウヱスト牡43:51.77W.H.コツフヰー
大正7年秋季1918年11月16日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルプリンセスプレイアモーア牝43:41.10W.H.コツフヰー
大正8年春季1919年5月3日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルペットレル牝43:47.13仲住与之助シギ
大正8年秋季1919年11月22日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルマイヅル牡43:53.40佐々木勇太郎絹川安松
大正9年春季1920年5月1日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルウキフネ牝53:58.33
大正9年秋季1920年11月20日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルホーンビーム牡43:44.10函館孫作大島要三
大正10年春季1921年5月7日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルダークメード牡44:01.73美馬勝一服部宗右衛門
大正10年秋季1921年11月19日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルクンプウ牡43:38.18柴田寛治
大正11年春季1922年4月22日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルオーロラ牡43:18.75函館孫作大島要三
大正11年秋季1922年11月11日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルイロハ牡43:43.35二本柳省三神崎利木蔵
大正12年春季1923年5月5日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルスターリング牡43:40.61尾形景造
大正12年秋季1923年12月22日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルピューアゴウルド牝43:51.33杉浦照久保熊彦
大正13年春季1924年5月3日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルフロラーカツプ牝53:42.63稲葉秀男
大正13年秋季1924年11月22日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルバンザイ牡33:41.93杉浦照久保熊彦
大正14年春季1925年5月16日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルロビンソン牡43:42.49友村哲二
大正14年秋季1925年11月28日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルカノウ牡43:37.15秋山辰治
大正15年春季1926年5月8日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルリオン牝33:40.81柴田寛治
大正15年秋季1926年11月27日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルクモカゼ牡43:36.01函館孫作大島要三
昭和2年春季1927年5月7日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルウヰンナー牡53:37.47秋山辰治
昭和2年秋季1927年11月26日優勝内国産馬連合競走目黒2マイルナスノ牡33:37.90二本柳省三橋本徳次郎
昭和3年春季1928年5月5日優勝内国産馬連合競走目黒3200mヱイ牡53:37 3/5大久保房松ニコエ
昭和3年大礼1928年10月16日各内国産馬連合競走目黒3200mハツライ牡43:34 3/5佐々木安橋本徳次郎
昭和3年秋季1928年12月4日各内国産馬連合競走目黒3200mクヰンホーク牝43:47 4/5尾形景造エツチ
昭和4年春季1929年5月4日各内国産馬連合競走目黒3200mエリザベス牝43:51 4/5美馬勝一
昭和4年秋季1929年11月23日各内国産馬連合競走目黒3200mユウエツ牡33:40 4/5
昭和5年春季1930年5月10日各内国産馬連合競走目黒3200mケンキン牡43:46 2/5岸参吉
昭和5年秋季1930年11月22日各内国産馬連合競走目黒3200mワカクサ牡33:38 2/5尾形景造
昭和6年春季1931年5月9日各内国産馬連合競走目黒3200mテキショウ牝43:42 4/5杉浦照
昭和6年秋季1931年11月22日各内国産馬連合競走目黒3200mハクリュウ牡33:36 0/5稲葉秀男北郷五郎新井八郎
昭和7年春季1932年4月29日農林省賞典競走目黒3200mハッピーチャペル牡43:38 2/5
昭和7年秋季1932年10月30日農林省賞典競走目黒3200mワカタカ牡33:26 2/5函館孫作東原玉造乾鼎一
昭和8年春季1933年4月28日農林省賞典競走目黒3200mハクコウ牡43:33 0/5尾形景造
昭和8年秋季1933年12月1日農林省賞典競走府中3200mハツピーランド牝33:44 4/5徳田伊三郎佐藤順治林民雄
昭和9年春季1934年4月27日農林省賞典競走府中3200mワカミチ牡43:40 4/5尾形景造
昭和9年秋季1934年11月23日農林省賞典競走府中3200mデンコウ牡33:28 4/5伊藤正四郎尾形景造高杉晋
昭和10年春季1935年5月3日農林省賞典競走府中3200mハクカ牡43:30 1/5秋山辰治石毛彦次郎七尾菊良
昭和10年秋季1935年12月6日農林省賞典競走府中3200mアカイシダケ牡33:36 2/5尾形景造尾形景造清水友太郎
昭和11年春季1936年4月8日農林省賞典競走府中3200mホンイチ牡43:45 4/5稗田十七二
昭和11年秋季1936年12月4日農林省賞典競走府中3200mマルヌマ牡33:28 2/5中村広中村広千明賢治
昭和12年春季1937年4月25日農林省賞典競走府中3200mピュアソール牝43:36 4/5佐藤嘉七田中和一郎加藤雄策
昭和12年秋季1937年11月23日農林省賞典競走府中3200mハッピーマイト牡33:27 1/5新井朋次郎秋山辰治竹中久蔵

阪神

開催名施行日競走名開催地距離優勝馬性齢タイム優勝騎手管理調教師馬主
大正13年秋季1924年10月11日各内国産馬連合競走鳴尾2マイルレデースバットン牝43:45.31伊藤勝吉
大正14年春季1925年4月11日各内国産馬連合競走鳴尾2マイルマツカゼ牡43:37.55布施文蔵
大正14年秋季1925年10月10日各内国産馬連合競走鳴尾2マイルチャペル牡43:40.65函館孫作大島要三
大正15年春季1926年4月10日各内国産馬連合競走鳴尾2マイルタマカゼ牡43:39.91伊藤勝吉
大正15年秋季1926年10月9日各内国産馬連合競走鳴尾2マイルヱスク牡43:34.24奥村鹿市
昭和2年春季1927年4月3日各内国産古馬競走鳴尾2マイルアスベル牝43:37.57尾形景造
昭和2年秋季1927年10月8日各内国産古馬競走鳴尾2マイルミフク牡33:43.56伊藤勝吉福原政治
昭和3年春季1928年4月7日各内国産古馬競走鳴尾3200mヨシトミ牡33:36 4/5二本柳省三
昭和3年秋季1928年11月20日各内国産古馬競走鳴尾3300mハクショウ牡43:41 4/5尾形景造尾形景造遠山芳三
昭和4年春季1929年4月3日各内国産古馬競走鳴尾3300mライハ牝43:40 1/5大久保房松
昭和4年秋季1929年10月12日各内国産古馬競走鳴尾3200mナスカゼ牝33:40 4/5柴田寛治
昭和5年春季1930年4月12日各内国産古馬競走鳴尾3200mタマコイワヰ牡43:46 2/5伊藤勝吉トモエ
昭和5年秋季1930年10月11日各内国産古馬競走鳴尾3200mウイリアムトツプ牡43:38 2/5元石吉太郎
昭和6年春季1931年4月11日各内国産古馬競走鳴尾3200mサイピツト牡43:42 4/5友村哲二
昭和6年秋季1931年11月7日各内国産古馬競走鳴尾3200mロビンオー牝33:36 0/5中島時一岡本和三郎
昭和7年大礼1932年1月8日農林省賞典競走鳴尾3200mアスコット牡43:44 4/5尾形景造尾形景造ドライバー
昭和7年春季1932年4月10日農林省賞典競走鳴尾3200mヤマヤス牝43:26 2/5大久保亀吉尾形景造西園寺八郎
昭和7年秋季1932年11月12日農林省賞典競走鳴尾3200mハクセツ牡33:33 0/5友村哲二田中和一郎小林暢
昭和8年春季1933年4月15日農林省賞典競走鳴尾3200mスターリングモア牝43:44 4/5相羽仙一
昭和8年秋季1933年10月6日農林省賞典競走鳴尾3200mカブトヤマ牡33:40 4/5大久保房松大久保房松前川道平
昭和9年春季1934年1月14日農林省賞典競走鳴尾3200mスターカツプ牝43:32 1/5中島時一
昭和9年秋季1934年12月24日農林省賞典競走鳴尾3200mスパーション牡33:27 0/5伊藤勝吉
昭和10年春季1935年4月14日農林省賞典競走鳴尾3200mオトコヤマ牡43:39 0/5永松馨
昭和10年秋季1935年11月17日農林省賞典競走鳴尾3200mスモールジャック牡33:37 1/5諏訪佐市
昭和11年春季1936年4月12日農林省賞典競走鳴尾3200mクヰンアスパー牝43:32 1/5伊藤勝吉
昭和11年秋季1936年11月3日農林省賞典競走鳴尾3200mピアスアロートマス牝33:26 4/5稗田虎伊東松孝時
昭和12年春季1937年4月18日農林省賞典競走鳴尾3200mトクライト牡43:30 0/5大久保亀吉
昭和12年秋季1937年11月24日農林省賞典競走鳴尾3200mゼネラル牡33:34 1/5武田文吾西橋外男

京都

開催名施行日競走名開催地距離優勝馬性齢タイム優勝騎手管理調教師馬主
昭和3年春季1928年4月15日各内国産牝馬連合競走京都3200mナノハナ牝43:34 2/5中島時一
昭和3年秋季1928年12月9日各内国産牝馬連合競走京都3200mアリアケ牝43:35 4/5伊村宗芳
昭和4年春季1929年4月14日各内国産牝馬連合競走京都3200mタマチップ牝53:36 3/5伊藤勝吉トモエ
昭和4年秋季1929年12月7日各内国産牝馬連合競走京都3200mハクシュン牝43:41 4/5尾形景造
昭和5年春季1930年4月26日各内国産牝馬連合競走京都3200mサンシャイン牝43:45 4/5尾形景造土田荘助
昭和5年秋季1930年12月13日各内国産牝馬連合競走京都3200mケンシク牝43:47 2/5中村一雄
昭和6年春季1931年4月25日各内国産牝馬連合競走京都3200mパンジー牝43:48 0/5美馬信次
昭和6年秋季1931年11月28日牝馬連合競走京都3200mロビンオー牝33:44 3/5中島時一岡本和三郎
昭和7年春季1932年5月6日牝馬連合競走京都3200mナンフウ牝43:34 2/5
昭和7年秋季1932年12月16日牝馬連合競走京都3200mセカイイチ牝43:35 2/5伊藤勝吉
昭和8年春季1933年4月30日牝馬連合競走京都3200mシラヌヒ牝43:31 0/5
昭和8年秋季1933年12月17日牝馬連合競走京都3200mアサハギ牝43:38 4/5二本柳勇伊藤勝吉古門九一郎
昭和9年春季1934年4月3日牝馬連合競走京都3200mエツフオード牝43:35 1/5武田文吾高橋政治郎西橋外男
昭和9年秋季1934年12月2日牝馬連合競走京都3200mゼンジ牝33:32 4/5吉田善助
昭和10年春季1935年5月5日牝馬連合競走京都3200mグロリア牝43:30 1/5武田文吾
昭和10年秋季1935年12月21日農林省賞典牝馬競走京都3200mジャンダークトマス牝33:35 0/5稗田十七二
昭和11年春季1936年5月3日農林省賞典牝馬競走京都3200mクレオパトラトマス牝43:31 2/5伊藤勝吉伊藤勝吉東松孝時
昭和11年秋季1936年10月11日農林省賞典牝馬競走京都3200mシンヨリーナトマス牝33:32 0/5稗田十七二稗田虎伊東松孝時
昭和12年春季1937年1月11日農林省賞典牝馬競走京都3200mイロハ牝43:38 0/5清水茂次神崎利木蔵
昭和12年秋季1937年12月20日農林省賞典牝馬競走京都3200mヒサニシキ牝33:43 2/5武田作十郎藤本冨良タイヘイ
  • 牝馬限定

大禮記念

競馬場施行日優勝馬性齢タイム優勝騎手管理調教師馬主
京都1928年10月23日アラタマ牡33:39 0/5伊藤勝吉

北海道の優勝新馬連合

馬券禁止後の1910年(明治43年)秋、北海道では独自の連合競走を実施した。札幌競馬倶楽部函館競馬倶楽部は共同で1着1500円の賞金を捻出し、優勝新馬連合競走を実施した[10][4]

参考文献

  • 『日本馬政史』4巻、社団法人帝国競馬協会・編、昭和3年(1928年)刊
  • 『日本競馬史』3巻・5巻日本中央競馬会、1969
  • 『天皇賞競走史話』、日本中央競馬会、1968
  • 『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974
  • 『日本レース・クラブ50年史 -『日本レース・クラブ小史』解説篇』、日本中央競馬会、鈴木健夫編、1970
  • 『蹄跡』、北海道馬産史編集委員会、1983

脚注

注釈

  1. たとえば、1908年(明治41年)には年間の競馬の賞金総額は60万円程度だったが、1909年(明治42年)には6万6000円程度まで落ち込んだ(『日本馬政史』4巻p577 - 597)。
  2. この時代の著名な競走帝室御賞典では1着馬には賞品が授与されるだけで賞金は無し、2着で250円の賞金だった。

出典

  1. 『日本馬政史』4巻p577-597
  2. 『日本競馬史』3巻p84-86
  3. 『日本競馬史』3巻p531-570
  4. 『蹄跡』p405-411
  5. 『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974、p155
  6. 『日本競馬史』3巻p144
  7. 『日本競馬史』3巻p605-606
  8. 『日本競馬史』3巻p599
  9. 『天皇賞競走史話』p59-62
  10. 『日本競馬史』3巻p282

関連項目

  • 横浜特別 - 「連合競走」ではないが1928年(昭和3年)から始まった競走で、年2回、3200メートルの高額賞金競走である。
  • 札幌特別 - 1930年(昭和5年)から行われた高額賞金競走。賞金総額10000円で、優勝内国産馬連合競走よりも高額だった。
  • 各内国抽籤濠州産馬混合競走 - 日本産馬、オーストラリア産馬、抽選馬の区別なく争った競走。豪抽混合と通称。3400メートル(=2マイル1ハロン=二哩一分)だったので二哩一分とも呼ばれた。現在の目黒記念の前身。
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.