保科正倫
保科 正倫(ほしな まさしげ[1]、享保5年(1720年)[2] - 延享3年12月5日(1747年1月15日))は江戸時代後期の旗本寄合席。飯野藩主家分家の旗本保科氏第5代目当主。諱は正常、のちに正倫。通称は主水。実父は保科正純。実母は保科正静養女(沼間清氏の娘)。養父は兄の保科正勝。弟は岡部経盛。正室は小笠原茂武の娘。実子は内記と娘の1男1女。養子は保科正盈(戸田氏常の4男)。石高は上野国群馬郡・吾妻郡のうち2500石
生涯
寛政重修諸家譜では、兄の正勝の生母は「某氏」とされる一方で、正倫の生母は父の正室の保科正静養女とされている。
元文3年(1738年)に兄が死去したので、旗本保科家の家督を継いで旗本寄合席となり、将軍徳川吉宗に初御目見えを済ませる。
延享2年1月(1745年)に火事場見廻役に就任する。延享3年(1746年)刊行の須原屋茂兵衛蔵板武鑑において出火之節見廻御役に「二千五百石 とらの御門内 保科主水」との記載がある。
延享3年12月(1747年)に死去する。享年27。法名は義操。墓所は代々の菩提寺である麻布の天眞寺。実子の内記は早世しており、末期養子として[3]大垣藩主家戸田氏分家にあたり、本家の飯野藩主保科家と縁戚関係がある旗本の戸田氏常の4男である正盈を迎えて相続させる。
脚注
- 寛政重修諸家譜。但し徳川家重が諱を「家重」としてからもこの読み方だったかは不明。
- 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算
- 寛政重修諸家譜の正盈の記述に「終に臨みて養子とす」とある
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