佐柿
佐柿(さがき)は、福井県三方郡美浜町の地名。戦国時代に国吉城の城下町として築かれた集落である。
佐柿 さがき | |
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国 | 日本 |
都道府県 | 福井県 |
市町村 | 三方郡美浜町 |
面積 | |
• 合計 | 0.89 km2 |
標高 | 18 m |
人口 (2015年) | |
• 合計 | 238人 |
• 密度 | 270人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
919-1132 |
地理
御岳山(御嶽山、おたけやま)の北西麓に立地している[2]。集落の北方には標高60メートルの椿峠があり、天王山(てんのうやま)と御岳山を隔てている[2]。中世末期から近世初頭にかけて、御岳山の小尾根には山城の国吉城が築かれていた[2]。国吉城がある尾根は城山と呼ばれている。
集落内には丹後街道が通っており、集落の北端から南進した後、鉤型に曲がって河原市に向かって西進している[3]。集落の中心には丹後街道が折れ曲がる辻があり、城下町時代には高札場があった[3]。かつて集落の北端には佐柿関所があり、桝形の中にあった冠木門と番所が出入りを監視していた[3]。
地名として岩清水、黒町、中組町、立町、殿町、宮ノ越、本町、南町、野瀬町、町分、山ノ神、城下、馬場下、旭谷、川上がある[3]。
歴史
中世・近世
佐柿集落の東側には御岳山があり、弘治2年(1556年)には粟屋勝久が御岳山に国吉城を築城した。粟屋勝久は若狭国守護大名で武田氏重臣だった武将であり、国吉城主として何度も越前朝倉氏の軍勢と戦った。
天正11年(1583年)、木村常陸介重滋は豊臣秀吉から国吉城と耳庄と山東庄を与えられ、国吉城城下町として佐柿の町づくりを開始した。間口割制の敷地割を行い、街道に沿った間口は分限で定められた。諸役の免除などもあり、約100戸の集落になった[4]。
江戸時代の三方郡佐柿村は小浜藩領だった[2]。寛永11年(1634年)に酒井忠勝が小浜城に入封すると、佐柿村の字旭谷に陣屋が設置されて奉行が置かれた[2]。村高は「正保郷帳」によると724石余、「天保郷帳」によると725石余、「旧高旧領」では732石余[2]。陣屋に併置された女留番所では婦女の出国が取り締まられている[2]。
近代・現代
廃藩置県によって1871年(明治4年)には小浜県の所属となり、その後は敦賀県や滋賀県の所属を経て、1881年(明治14年)に福井県の所属で落ち着いた[2]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると三方郡耳村が発足し、耳村の大字として佐柿が設置された[2]。1891年(昭和24年)時点の戸数は113戸、人口は523人だった[2]。
1872年(明治5年)には佐柿に要道小学校が開校しているが、1886年(明治19年)に河原市村に尋常科弥美小学校が開校すると、要道小学校は弥美小学校に統合されている[2]。1879年(明治12年)には佐柿に三方郡役所が置かれたが、1886年(明治19年)には三方村に移転した[2]。かつては敦賀警察署佐柿分署も置かれていたが、1887年(明治20年)には三方村に移転している[2]。
1954年(昭和29年)には合併によって美浜町が発足し、美浜町の大字として佐柿が設置された[2]。1955年(昭和30年)時点の戸数は75戸、人口は342人だった[2]。
2009年(平成21年)には若狭国吉城歴史資料館が開館した[5]。
名所・旧跡・観光スポット
- 国吉城 - 標高197メートルの城山にある山城であり、若狭国守護大名の粟屋勝久が戦国時代に築いた[3]。続日本100名城。美浜町指定史跡。
- 若狭国吉城歴史資料館(旧田辺半太夫家住宅) - 国吉城址と佐柿の町並みを紹介する施設。主屋は江戸時代後期に豪農屋敷として建築され、座敷は佐柿町奉行所として建築された[5]。2009年(平成21年)に移築されて資料館が開館した[5]。国の登録有形文化財[5]。
寺院
- 徳賞寺 - 曹洞宗の寺院。山号は陽光山。永禄6年(1563年)に粟屋勝久が、徳賞庵を徳賞寺としたとされる。寛永年間(1624年~1644年)に焼失し、宝永年間(1704年~1710年)に再建された[8]。
- 青蓮寺 - 古義真言宗の寺院。山号は青蓮寺[9]。木造観音菩薩立像は国の重要文化財[10][5]。鎌倉時代末期頃に製作されたと考えられる五百体愛染明王図は福井県指定文化財[5]。小浜藩第2代藩主の酒井忠直が植えたと伝えられる大イチョウは美浜町指定天然記念物[10][5]。涅槃図・不動明王図・十六善神図は美浜町指定文化財[5]。青磁浮牡丹皿は美浜町指定文化財[5]。
- 圓行寺 - 浄土真宗本願寺派の寺院。弘化2年~5年(1845-1848年)小畑家の先祖の寄進でつくられた。若狭では数少ない真宗本堂の遺構である[11]。
- 光称寺 - 浄土宗の寺院。山号は大原山[12]
- 了賢寺 - 真宗大谷派の寺院。山号は寿光山[13]。
- 福寿院 - 曹洞宗の寺院。山号は無両山[12]。徳賞寺の末寺[14]。
小畑家住宅
小畑家住宅が建築されたのは江戸時代に遡り、福井県でも数少ない大規模な町家の遺構である[15]。1階表側や内部に改造の跡が見られるが、創建当初の状態も随所に残している[15]。2階が低い厨子2階になっている[16]。佐柿の家並みや景観にとって最も中核的な役割を果たしているといえる[17]。
小畑家住宅は佐柿のほぼ中央に位置し、丹後街道が鉤の手に折れる角地の広い一角を占める[18]。表間口は8間半ある大規模な町家で、表構えもよく整っている[11]。
鬼瓦の一つに弘化3年(1846年)の銘があることから[19]、それ以前から建っていたとみることができる。
かつては造酒屋で、現在も随所にその特徴を見ることができる[3]。
脚注
- 佐柿国吉会館の標高。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 18 福井県』角川書店、1989年、524頁。
- 美浜町教育委員会、若狭国吉城歴史資料館『国吉城址と佐柿の街並み』美浜町教育委員会、2019年。
- 福井県『福井県史 資料編14 建築・絵画・彫刻等』福井県、1989年、314頁。
- 美浜町の主な文化財 美浜町
- 美浜町教育委員会『佐柿の寺社と町家 ~見どころ編2~ 佐柿国吉城ブックレット 歴史の町・佐柿の章 第2巻』美浜町教育委員会、2015年、14-15頁。
- 『耳村誌 美浜文化叢書9』美浜文化叢書刊行会、2014年3月31日、148頁。
- 美浜町教育委員会『わかさ美浜町誌 第三巻 美浜をさかのぼる』美浜町、2005年、114頁。
- 美浜町教育委員会『三方郡誌復刻版』美浜町教育委員会、1972年、281頁。
- 大イチョウ(青蓮寺) 若狭湾観光連盟
- 『福井の歴史的建造物』福井県、2005年、279頁。
- 美浜町教育委員会『わかさ美浜町誌 第三巻 美浜をさかのぼる』美浜町、2005年、400頁。
- 美浜町教育委員会『わかさ美浜町誌 第三巻 美浜をさかのぼる』美浜町、2005年、401頁。
- 美浜町教育委員会『佐柿の寺社と町家~見どころ編2~』美浜町教育委員会、2015年、7頁。
- 『佐柿の家屋と家並み』美浜町教育委員会、2003年、44頁。
- 吉田純一 18p
- 『佐柿の家屋と家並み』美浜町教育委員会、2003年、41頁。
- 『福井の歴史的建造物』福井県、2005年、206頁。
- 福井県『福井県史 資料編14 建築・絵画・彫刻等』福井県、1989年、44頁。
- 美浜町教育委員会『佐柿の町並み ~見どころ編1~ 佐柿国吉城ブックレット 歴史の町・佐柿の章 第1巻』美浜町教育委員会、2013年、12-13頁。
- 『敦賀市史 通史編上』敦賀市、1985年、910-911頁。
- 『福井県三方郡誌』三方郡教育会、1911年、287-288頁
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 18 福井県』角川書店、1989年。
- 美浜町教育委員会『佐柿の町並み ~見どころ編1~ 佐柿国吉城ブックレット 歴史の町・佐柿の章 第1巻』美浜町教育委員会、2013年。
- 美浜町教育委員会『佐柿の寺社と町家 ~見どころ編2~ 佐柿国吉城ブックレット 歴史の町・佐柿の章 第2巻』美浜町教育委員会、2015年。
- 美浜町教育委員会、若狭国吉城歴史資料館『国吉城址と佐柿の街並み』美浜町教育委員会、2019年。
- 美浜町誌編纂委員会『わかさ美浜町誌 第二巻 祈る・祀る』美浜町、2006年。
- 美浜町誌編纂委員会『わかさ美浜町誌 第三巻 美浜をさかのぼる』美浜町、2005年。
- 吉田純一 (2009年). “福井工業大学研究紀要. 第二部「美浜町佐柿の家屋形態と表構えについて」”. 福井工業大学. 2022年10月24日閲覧。