伊波城
伊波城(伊覇城、いはぐすく、いはじょう)は、沖縄県うるま市石川にあったグスク(御城)の趾である。
(沖縄県) | |
---|---|
伊波城正殿 | |
別名 | 伊覇城(当時の名称) |
城郭構造 | 単郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 伊覇按司一世(仲宗根若按司の八男) |
築城年 | 1340年(三山時代) |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 |
伊覇按司一世 伊覇按司二世 伊覇按司三世 |
廃城年 | 1511年頃 |
遺構 | 石垣、拝所、物見台 |
指定文化財 | 県の史跡 |
沖縄県の史跡に指定されている[1]。
概要
うるま市石川の市街を北東に見渡す標高87mの丘陵に位置する山城である。琉球石灰岩の上に築かれ、城壁は自然の地形を巧みに取り込みながら自然石を殆ど加工せずに積上げていく野面積み技法で作られており、北側には石灰岩の断崖を備えている。1989年の発掘調査では城内の地表下50cmから数回の立替をしたと思われる無数の柱穴跡が発見され、掘立柱建物の存在が確認されている。
また、地元産や外国産の土器、中国産の青磁や白磁、三彩陶器、褐釉陶器、染付、南島産の須恵器なども出土しており、当時の伊覇按司が広い交易範囲を有し、その勢力が大きなものであったことを示している。
調査では、他に13世紀後半から15世紀に当時の人々が食べ残した貝殻や魚・猪の骨なども出土しているが、貝塚時代の土器も多数出土しており、約2800年前の貝塚が伊覇城を含めた丘陵全体にあったことがうかがわれ、同地域が伊覇按司による築城よりはるか前の古代から人々の重要な居住地であったことを示す。
伊覇按司の歴史
今帰仁王子の出自
浦添を中心に中南部の大半と本部半島に勢力を築いた英祖王統の初代王・英祖の次男・湧川王子は今帰仁城を統治、中北山を興して北山世主(北山王)となり、その世子は代々その地位を継承した。
1322年、湧川王子の玄孫に当たる今帰仁城主の北山王・今帰仁仲宗根若按司は、同じく北山王であった祖父・今帰仁按司一世の弟(湧川按司二世)の子である羽地の有力按司・怕尼芝との戦いに敗れ、その道中で命を落とした。怕尼芝は後北山王を自称し、今帰仁城を中心に後北山・北山王国(怕尼芝王統)を興した。落命した仲宗根若按司の父は仲昔今帰仁按司丘春であり、怕尼芝と丘春は従兄弟に当たる。
敗れた仲宗根若按司の一族係累は各地に離散し、若按司の八男であった今帰仁王子は父の亡骸を葬った後、名護・読谷山経由で越来間切(後の美里間切)嘉手苅村へ流れ着いた。そこで力をつけた今帰仁王子は同地を治めていた美里大主に見出され、彼の娘・眞鶴金を妃に迎えて美里間切伊覇村(現在のうるま市石川伊波)にこの伊覇城(現在では伊波城と呼ばれている)を築き、伊覇按司(伊覇按司一世)と称するようになった。
周辺
伊波城周辺の拝所
伊波城内の南側入り口内に伊波ノロ殿内 (伊波ヌンドゥンチ・神アシャギ) が、また西側には伊波ヌール墓がある。三ツ森城之嶽(ウフアガリヘの遙拝所)、中森城之嶽(火の神)、森城之嶽の三つの拝所がある。
脚注
- 沖縄県教育庁文化財課要覧(平成29年度版) 国・県・市町村指定文化財(PDF)、2018年7月9日閲覧。