五藤為浄

五藤 為浄(ごとう ためきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将山内家の家臣。

 
凡例
五藤為浄
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文22年(1553年
死没 天正11年3月3日1583年4月24日
別名 通称:吉兵衛
墓所 高知県安芸市安芸城横にある安芸川北横山墓地
主君 山内一豊
氏族 五藤氏
父母 父:五藤浄基 母:堀江の娘[1]
兄弟 為浄為重

略歴

天文22年(1553年)、五藤浄基の子として尾張国葉栗郡黒田[2]で誕生した。

五藤家は父・浄基の頃から山内家に仕え、為浄も当主・山内一豊に従い刀根坂の戦いなどに転戦する。

金ヶ崎の戦いで、矢が一豊の頬に刺さり、五藤吉兵衛が一豊の顔を踏んで抜いた。五藤は「主君の顔を踏んだ」ということを喜び、わらじと矢を家宝にした。[3]


天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢国亀山城攻撃の際、主君・一豊の城内一番乗りを助けるが、討死した。享年31と伝わる。

その後、弟・為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐国に入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。その後も五藤氏は幕末まで代々土佐藩家老を勤めている。

脚注

  1. 越前朝倉氏娘。堀江景忠等と同じ住所であったとの記載あり。
  2. 愛知県一宮市黒田。
  3. http://www.gotou-kampou.com/about/history.html

登場作品

関連項目

This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.