丹羽氏勝継室
概略
彼女の名前、経歴、生没年に関しては、一切不明[1]。信秀には15人の娘[2]の存在が確認できるが、順序なども不明。
『寛政重修諸家譜』の丹羽氏勝の記述に「継室は織田佐渡守(備後守)信秀が女」[3][4]とあり、尾張岩崎城主丹羽氏勝の継室となったとあるが、同書の信秀の子の箇所にはこの女性の存在は書かれていない。
氏勝は天正8年(1580年)8月に林秀貞らと共に信長によって追放された[1]。
詳細は「丹羽氏勝」を参照
脚注
- 西ヶ谷 2000, p.252
- 諸系図にある12女と、系図に乗らぬあるいは系図によって人物が異なる3人を合わせたもの。
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- 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年、482頁 。
- 『考証織田信長事典』では「備後守」と修正されている。
参考文献
- 西ヶ谷恭弘『考証織田信長事典』東京堂出版、2000年、252頁。ISBN 4490105509。
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