下平英太郎
下平 英太郎(しもだいら えいたろう、1869年3月1日(明治2年1月19日) - 1933年(昭和8年)5月13日)は、日本の海軍軍人。 装甲巡洋艦「八雲」艦長として第一次世界大戦における青島攻略戦に参戦し、のち戦艦「日向」初代艦長を務めた海軍少将である。従四位勲三等功四級。
生誕 |
1869年3月1日(明治2年1月19日) 日本・岩代国会津熊倉 |
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死没 | 1933年5月13日(64歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1892年 - 1918年 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 稚松会副会長 |
生涯
会津藩の番頭組に属す180石取り[1]の藩士、下平英吉の長男として会津に生まれる[2]。下平家は戊辰戦争後に斗南藩領野辺地に移住した。海軍関係の資料で本籍地は青森とされるのはこのためである。
海軍兵学校に進み、17期生として卒業。席次は88名中9番であった。1892年(明治25年)5月、少尉任官。
「天龍」航海士として日清戦争を迎え、威海衛攻略戦などに参戦した。水雷術練習所学生を経て横須賀水雷団2水雷艇隊艇長、「笠置」水雷長を務めるが、台湾総督府参謀兼副官を経て帰国後は砲術畑を歩む。「千歳」、「常磐」の砲術長を経て、日露戦争中は「韓崎丸」に乗組み、堀悌吉、山本五十六ら海兵32期の指導にあたり[3][4]、砲術練習所教官を務めている。戦後は「春日」副長、舞鶴鎮守府参謀を歴任した。1902年(明治35年)少佐、1906年(明治39年)中佐、1912年(明治45年)大佐へ進級。
大佐時代は6艦の艦長を務め、第一次世界大戦 では「八雲」艦長として青島攻略戦に参戦した。1915年(大正4年)4月1日造船造兵監督官に就任。戦艦「日向」艤装員長、同艦長を務め1917年(大正6年)12月1日少将へ昇進。翌年12月1日予備役編入となった。
旧会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会設立に加わり[5]、のち副会長に就任。同会最後の会長であった両角三郎は妹婿である[6]。
- 艦長を務めた艦
- 装甲巡洋艦・八雲
- 戦艦・周防
- 戦艦・日向
脚注
- 注釈
- 出典
- 会津郷土資料研究所『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
- 『会津会雑誌第42号』(昭和8年6月発行)「死亡会員略伝 下平英太郎君」
- 石井稔編著『異色の提督 百武源吾』異色の提督百武源吾刊行会、1979年。30-31頁
- 「振天府拝観」
- 『稚松会会誌』(1912年発行)
- 「両角歩兵中尉結婚願いの件」
- 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
参考文献
- 「振天府拝観」(ref: C06091611000)
- 「両角歩兵中尉結婚願いの件」(ref: C07041344900)
- 「葬儀及び儀仗兵(2)」(ref: C08021087900)
- 「第2艦隊軍艦八雲戦闘詳報」(ref: C10080014100)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第10巻)第一法規出版
- 水交会 編『回想の日本海軍』原書房、1985年。ISBN 4-562-01672-8。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 福島県立会津高等学校創立70周年記念誌
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
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