七戸城

七戸城(しちのへじょう)は、青森県上北郡七戸町に所在した日本の城。別名・柏葉城。国の史跡[1]中世から近世にかけての平山城で、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40メートルの丘陵に置かれた。

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七戸城
青森県
別名 柏葉城
築城主 南部政光?
築城年 不明、14世紀?
主な城主 南部氏、七戸氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 曲輪、堀
指定文化財 国の史跡[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
県No.402001[2]
位置 北緯40度41分53.0秒 東経141度08分56.0秒
地図
七戸城の位置(青森県内)
七戸城
七戸城

歴史

南北朝時代南部政長が築城したと伝えられているが、考古学的調査の結果からは14世紀後半の南部政光により築城されたと考えられている[3]

天正19年(1591年)城主七戸家国九戸政実の乱九戸城に籠城し、滅亡した。翌20年(1592年)「諸城破却書上」に「糠部郡之内 七戸 平城 破 信直抱 代官 横沢 左近」とあり、城は破却されたが、津軽に対する配慮から闕所地の七戸領は浅水城主南部信義の三男南部(南)直勝に与えられ、後に七戸氏の名跡を継がせ2300石を領知し家老職を世襲した。

3代目重信は南部氏27代、盛岡藩初代藩主南部利直の五男で、寛文4年(1664年)に本家29代、第3代盛岡藩藩主を継承、藩の直轄地となり城内に代官所が設置され、陪臣も南部家直臣に昇格し七戸御給人と称された。

元禄7年(1694年)重信の六男政信は、盛岡藩5代藩主南部行信は5000石を内分され幕府旗本寄合席として別家を立てる。

文化元年(1804年)8月、幕命による「郷村仮名付帳」の作成に際し、野辺地・七戸代官所が城郭に次ぐ「要害屋敷」と書き上げ幕府の承認を得た。

文政2年(1819年)、5代南部主税信鄰(麹町候)は、盛岡藩11代藩主南部利敬から6000石を加増され11000石の大名に列する。

安政5年(1858年)嫡子信誉は北方警備の功績により、城主格大名に昇格するが築城に至らなかった。

7代南部信民戊辰戦争に際し、奥羽越列藩同盟に参加して敗戦。家督を南部信方に譲り隠居する。

明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、南部信民が七戸知藩事に任じられ、藩庁がここに置かれた。

明治6年(1873年)に廃城と決まった。

城跡

1941年昭和16年)12月13日に国の史跡に指定された。現在は、柏葉公園として整備されている。

画像

脚注

参考資料

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205。
  • 西ヶ谷恭弘『国別 城郭・陣屋・要害・台場辞典』東京堂出版、2002年7月15日。ISBN 4-490-10605X。

関連項目

外部リンク

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