一柳直里

一柳 直里(ひとつやなぎ なおさと)は、江戸時代中期の旗本。通称は勘之丞。875石を知行し書院番を務めていたが、不行跡により改易処分を受けた。

 
凡例
一柳 直里
時代 江戸時代中期
別名 勘之丞
幕府 江戸幕府 書院番
主君 徳川家治
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直義 母:安藤直規の娘
兄弟 直里、義路(酒井政道)
正室:間部詮長の娘
継室:一柳頼寿の娘
継室:猪俣則温の養女
丑之助

生涯

旗本一柳直義(875石[1][注釈 1])の子として生まれる。この一柳家は、一柳直盛の五男・一柳直澄が立てた家で、父の直義は小松藩一柳頼邦の五男から養子に入っている。

安永8年(1779年)、父の死により家督を継ぐ[3]。安永9年(1780年)、徳川家治に初謁[3]天明7年(1787年)に書院番となる[3]

最初間部詮長の娘を妻とした[3]。次いで後妻として小松藩主一柳頼寿の娘(従姉妹にあたる)を迎え、丑之助を儲けたが[3]、一柳氏とは離縁となっている[1][4]

直里は、従者衣笠十兵衛の娘と「密通」しており、彼女を正妻とするために、幕府には猪俣要右衛門則温(御勘定[1])の養女と届け出て認められた[3]。一族には猪俣の姪と説明していたようである[3]。直里はみだりに庶民を近づけており[3]、直里の駿府在番中に十兵衛やその娘である後妻(則温の養女)が屋敷内で博奕を開いた上[3]、後妻は丑之助を虐待した(「不慈の事ども多かりし」)[3]。これを見かねた使用人が丑之助を誘い、親族のもとに駆け込んで訴える事態に発展した[3]。駿府から帰任した直里に、弟の義路(左門)をはじめとする一族は意見したものの、義里は聞き入れなかった[3]。さらには吉原で遊興するなどの不行跡があり[3]、これらを罪として寛政2年(1790年)11月25日に改易処分となった[3]。『断家譜』では「遠島」とある[1]

後妻(則温の養女)も同日、継子に対する不慈、夫の留守中の賭博開帳といった行状に加え、取り調べに対して反抗的であったことが不穏当であるとされ(「強て申陳せし状曲事」)、遠流に処せられた[3]

家族・親族

弟の義路(仙次郎、左門。酒井政共の養子となり政道と名乗ったが、のちに実家に戻った)と妹(『断家譜』によれば夭折[1])がいる[3]。『寛政譜』によれば子は丑之助のみであるが[3]、『断家譜』によれば猪俣氏との間に女子がいる[1]

『断家譜』によれば丑之助で家は断絶したとある[1]。『一柳家史紀要』では直里の改易の顛末はおろか名も触れられていないが、「直義の子孫」は小松藩に仕えたといい、昭和初年時点の子孫の情報を載せている[5]

脚注

注釈

  1. 『寛政譜』では870石余[2]

出典

  1. 『断家譜 三』p.170。
  2. 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.162、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.162。
  3. 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.163、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.163。
  4. 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.161、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.161。
  5. 一柳貞吉 1933, p. 50.

参考文献

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