レアンドロ・V・ロクシン
人物
ネグロス島シライ生まれ[2]。セント・トマス大学音楽学校に進学するも、途中で建築科に編入学する[2]。27歳の時に設計した教会礼拝堂の設計で注目を浴び[2]、それ以来、数々の公共建築を手がけ、国内外で高く評価される[2]。建築のみならず、現代舞踊や陶芸など、芸術分野を横断する活動でも知られる[1][2]。
「フィリピン建築とは、東洋と西洋というあまりにも異なり相対する2つの文化の大きな流れが収斂された産物である」という信条を持ち[2]、欧米への留学が不可欠とされてきたフィリピン建築界において、フィリピンを離れなかった稀有な建築家であった[2]。
1994年、マカティにて死去。
主な作品
- 「ホーリーサクリファイス礼拝堂」ケソン、1955
- 「フィリピン文化センター建築物群」マニラ、1970年代前後
- 「日本万国博覧会フィリピン館」大阪、1970
- 「マカティ証券取引所」マニラ、1971
- 「イスタナ・ヌルル・イマン」(ブルネイ王宮)バンダルスリブガワン、1984
- 「フィリピン最高裁判所」マニラ、1991
脚注
- “レアンドロ・V・ロクシン”. 福岡アジア文化賞. 2022年4月23日閲覧。
- “レアンドロ・V・ロクシン プロフィール”. 福岡アジア文化賞委員会. 2022年4月閲覧。
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