ラオディ

ラオディモンゴル語: Laodi中国語: 老的、生没年不詳)は、モンゴル帝国の第5代皇帝クビライ・カアンの庶子の西平王アウルクチの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では老的(lǎode)と記される。

概要

ラオディの祖父のアウルクチはクビライから「西平王」に封ぜられた人物であり、その一族はチベット方面の経略を担当してきたが、ラオディのみは至大2年(1309年)に雲南王に封ぜられ雲南方面の統治に携わるようになった。雲南は元々はアウルクチの同母兄のフゲチの一族が治めていたが、後にクビライの嫡孫のカマラの家系が治めるようになっていた。しかし、この頃雲南王位にあったスンシャンは病がちで公務に耐えられず、そのため元々雲南王であったフゲチ家と家格が近いアウルクチ家からラオディが選ばれ、新たな雲南王にされたのだと考えられている[1]

至大4年(1311年)、八百媳婦蛮と大小徹里蛮が叛乱を起こしたため、右丞のアグタイ(阿忽台)とともにこれを討伐した[2]。この功績のためか、同年には馬価12000錠が与えられている[3]

延祐2年(1315年)、今度は先帝カイシャンの子のコシラが「周王」として新たに雲南の統治者に任ぜられることとなり、ラオディは朝廷に赴いた[4]。しかし、実はコシラの雲南出鎮はコシラを次のカアン候補から排除するための陰謀の一環であり、途中で叛乱を起こそうとして失敗したコシラはチャガタイ・ウルスに亡命する事態となった[5]。この一連の騒動の後、ラオディは史料上に全く現れなくなるため、あるいはこの陰謀に巻き込まれてしまったのではないかと考えられている[6]。ラオディの後、雲南王位は再びカマラ家に戻り、スンシャンの子のオンシャンが雲南王となった。

アウルクチ西平王家

脚注

  1. 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年]三月己丑……梁王在雲南有風疾、以諸王老的代梁王鎮雲南、賜金二百五十両・銀七百五十両、従者幣帛有差。……丙寅、賜雲南王老的金印」
  2. 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年五月]癸酉、八百媳婦蛮与大小徹里蛮寇辺、命雲南王及右丞阿忽台以兵討之」
  3. 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年八月]丁巳……給雲南王老的部属馬価一万二千錠」
  4. 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年二月]壬寅、雲南王老的来朝」
  5. 杉山1995,123-128頁
  6. 牛根2008,93-94頁

参考文献

  • 牛根靖裕「元代雲南王位の変遷と諸王の印制」『立命館文学』608、2008年
  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大学文学部研究紀要』34号、1995年
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻105列伝87
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