ポーランド君主一覧

ポーランド君主一覧では、現在のポーランドにあった諸王朝、諸国の君主を一覧で挙げる。

概要

ポーランドまたはその中核地域は、長いあいだ数多くの公(10世紀頃から14世紀)または王(11世紀 - 18世紀)によって支配されてきた。ピャスト王朝(960年頃 - 1370年)、ヤギェウォ王朝(1386年 - 1572年)の2つの王朝が長いあいだポーランドの支配者を輩出し続けた。ヤギェウォ王朝に後継者がいなくなると、ポーランド人はしばしば外国人や他王家の王子を支配者として連れてきた。16世紀から18世紀にかけて行われていた君主を自由選挙で選ぶ伝統は、ヨーロッパでは特異なものだった。ポーランドは1795年の第3次ポーランド分割に伴うポーランド・リトアニア共和国の消滅と同時に独立を失い、第一次世界大戦を経て1918年に独立を回復した時は共和政体を選択した。

ポーランドの君主

支配者王家治世付記
レフレフ族6世紀ポーランドを作った最初の首長
クラクスレフ族8世紀伝説的な首長
クラクフを開いた
ヴァンダレフ族8世紀伝説的な首長
クラクスの娘
母はヴァンダル人
ポピェルポピェル家公 9世紀伝説的な首長
ポラン=ゴプラン連合部族の首長(おそらくゴプラン族出身)
粉屋のアブラハムハザール人9世紀842年にひょんなことでポピェル死後のポラン=ゴプラン連合部族の首長に推挙されてしまったユダヤ人
滅亡した東方のハザール王国の王子ないし高位の貴族で、ポラン族のもとに亡命し粉屋を経営していた人物
首長就任を固辞し、知り合いの車大工のピャスト(車屋を経営するとともにポピェル政権の宰相も務めていたポラン族の人物)を推した
ピャスト
(車大工のピャスト)
ピャスト家公 9世紀伝説的な首長(ポラン族出身)
シェモヴィトピャスト家公 9世紀伝説的な首長
ピャストの息子
レステクピャスト家公 9 - 10世紀伝説的な首長
シェモヴィトの息子
シェモミスウピャスト家公 10世紀伝説的な首長
レステクの息子
ミェシュコ1世ピャスト家公 960年? - 992年シェモミスウの息子
最初のキリスト教徒の君主
ボレスワフ1世フロブルィピャスト家公 992年 - 1025年
王 1025年
ミェシュコ1世の息子
最初に戴冠したポーランド王
ミェシュコ2世ランベルトピャスト家王 1025年 - 1031年ボレスワフ1世の息子
ベスプリムピャスト家公 1031年 - 1032年ボレスワフ1世の息子
ミェシュコ2世ランベルトピャスト家公 1032年 - 1034年復位
カジミェシュ1世オドノヴィチェルピャスト家公 1039年 - 1058年ミェシュコ2世の息子
ボレスワフ2世シュチョドルィピャスト家公 1058年 - 1076年
王 1076年 - 1079年
カジミェシュ1世の息子
ヴワディスワフ1世ヘルマンピャスト家公 1079年 - 1102年カジミェシュ1世の息子
ズビグニェフピャスト家公 1102年 - 1107年ヴワディスワフ1世ヘルマンの息子
はじめボレスワフ3世と共同統治
ボレスワフ3世クシヴォウスティピャスト家公 1102年 - 1138年ヴワディスワフ1世ヘルマンの息子
はじめズビグニェフと共同統治
長子による支配」体制を採用
ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツピャスト家首位の公 1138年 - 1146年ボレスワフ3世の息子
シロンスク公を兼ねる
弟たちによって追放される
ボレスワフ4世ケンジェジャヴィピャスト家首位の公 1146年 - 1173年ボレスワフ3世の息子
マゾフシェ公を兼ねる
ミェシュコ3世スタルィピャスト家首位の公 1173年 - 1177年ボレスワフ3世の息子
ヴィエルコポルスカ公を兼ねる
カジミェシュ2世スプラヴィエドリヴィ
ピャスト家首位の公 1177年 - 1190年ボレスワフ3世の息子
ヴィシリツァ公、サンドミェシュ公を兼ねる
ミェシュコ3世スタルィピャスト家首位の公 1190年復位
カジミェシュ2世スプラヴィエドリヴィピャスト家首位の公 1190年 - 1194年復位
レシェク1世ビャウィピャスト家首位の公 1194年 - 1198年カジミェシュ2世の息子
サンドミェシュ公を兼ねる
ミェシュコ3世スタルィピャスト家首位の公 1198年 - 1199年復位
レシェク1世ビャウィピャスト家首位の公 1199年 - 1202年復位
ミェシュコ3世スタルィピャスト家首位の公 1202年復位
ヴワディスワフ3世ラスコノギピャスト家首位の公 1202年 - 1206年ミェシュコ3世の息子
ヴィエルコポルスカ公を兼ねる
レシェク1世ビャウィピャスト家首位の公 1206年 - 1210年復位
ミェシュコ1世プロントノギピャスト家首位の公 1210年 - 1211年ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツの息子
オポーレ=ラチブシュ公(高地シロンスク公)を兼ねる
レシェク1世ビャウィピャスト家首位の公 1211年 - 1227年復位
暗殺される
ヴワディスワフ3世ラスコノギピャスト家首位の公 1227年 - 1229年復位
コンラト1世マゾヴィエツキピャスト家首位の公 1229年 - 1232年カジミェシュ2世の息子
マゾフシェ公を兼ねる
ヘンリク1世ブロダティピャスト家首位の公 1232年 - 1238年ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツの孫息子
シロンスク公を兼ねる
ヘンリク2世ポボジュヌィピャスト家首位の公 1238年 - 1241年ヘンリク1世の息子
シロンスク公を兼ねる
レグニツァの戦いで落命
ボレスワフ2世ロガトカピャスト家首位の公 1241年ヘンリク2世の息子
シロンスク公を兼ねる
コンラト1世マゾヴィエツキピャスト家首位の公 1241年 - 1243年復位
ボレスワフ5世フスティドリヴィピャスト家首位の公 1243年 - 1279年レシェク1世の息子
レシェク2世チャルヌィピャスト家首位の公 1279年 - 1288年コンラト1世の孫息子
ヘンリク2世の女系の孫息子
ヘンリク4世プロブスピャスト家首位の公 1288年 - 1290年ヘンリク2世の孫息子
コンラト1世の女系の孫息子
ヴロツワフ公を兼ねる
プシェミスウ2世ピャスト家首位の公 1290年 - 1295年
王 1295年 - 1296年
ミェシュコ3世の玄孫
ヘンリク2世の女系の孫息子
ポズナン公、ヴィエルコポルスカ公、ポモジェ公を兼ねる
ヴァツワフ2世プシェミスル家首位の公 1296年 - 1300年
王 1300年 - 1305年
ボヘミア王
プシェミスウ2世の娘と結婚
マウォポルスカ公を兼ねる
ヴァツワフ3世プシェミスル家王 1305年 - 1306年ボヘミア王
ヴァツワフ2世の息子
戴冠せず
暗殺される
ヴワディスワフ1世ウォキェテクピャスト家首位の公 1306年 - 1320年
王 1320年 - 1333年
コンラト1世の孫息子
レシェク2世の異母弟
ポーランド王国を再統合
カジミェシュ3世ヴィエルキピャスト家王 1333年 - 1370年ヴワディスワフ1世ウォキェテクの息子
最も偉大なポーランド王の一人とされる
ルドヴィク・ヴェンギェルスキアンジュー家王 1370年 - 1382年ハンガリー王
ヴワディスワフ1世ウォキェテクの女系の孫息子
ヤドヴィガ・アンデガヴェンスカアンジュー家王 1382年 - 1399年ラヨシュ1世の娘
男性の王として即位
1386年より夫のヴワディスワフ2世ヤギェウォと共同統治

ポーランド・リトアニア連合王国のポーランド王

支配者王家治世付記
ヴワディスワフ2世ヤギェウォヤギェウォ家1386年 - 1434年リトアニア大公
1399年まで妻ヤドヴィガと共同統治
最も治世の長いポーランド君主
ヴワディスワフ3世ヴァルネンチクヤギェウォ家1434年 - 1444年ヴワディスワフ2世ヤギェウォの息子
ハンガリー王を兼ねる
ヴァルナの戦いで落命
カジミェシュ4世ヤギェロンチクヤギェウォ家1447年 - 1492年ヴワディスワフ2世ヤギェウォの息子
リトアニア大公を兼ねる
ヤン1世オルブラフトヤギェウォ家1492年 - 1501年カジミェシュ4世の息子
アレクサンデル・ヤギェロンチクヤギェウォ家1501年 - 1506年カジミェシュ4世の息子
リトアニア大公を兼ねる
ジグムント1世スタルィヤギェウォ家1506年 - 1548年カジミェシュ4世の息子
リトアニア大公を兼ねる
1512年にプロイセンを服属させる
1526年にマゾフシェ公国を併合
ジグムント2世アウグストヤギェウォ家1548年 - 1572年ジグムント1世の息子
リトアニア大公を兼ねる
ポーランドとリトアニアの人的同君連合を制度的国家連合に体制変更

ポーランド・リトアニア共和国のポーランド王

支配者王家治世付記
ヘンリク・ヴァレズィヴァロワ家1573年 - 1574年最初に国王自由選挙で選ばれたポーランド君主
ポーランド王位を放棄しフランス王に即位(アンリ3世)
アンナ・ヤギェロンカヤギェウォ家1575年 - 1586年ジグムント1世の娘
男性の王として即位
夫のステファン・バートリと共同統治
ステファン・バートリバートリ家1576年 - 1586年トランシルヴァニア公
妻のアンナ・ヤギェロンカと共同統治
最も偉大なポーランド王の一人とされる
ジグムント3世ヴァザヴァーサ家1587年 - 1632年ジグムント1世の女系の孫
スウェーデン王を兼ねる(在位1592年 - 1599年、称号のみ1599年 - 1632年)
ヴワディスワフ4世ヴァザヴァーサ家1632年 - 1648年ジグムント3世の息子
称号のみのスウェーデン王(1632年 - 1648年)
ヤン2世カジミェシュヴァーサ家1648年 - 1668年ジグムント3世の息子
称号のみのスウェーデン王(1648年 - 1660年)
退位
ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキヴィシニョヴィエツキ家1669年- 1673年有能な軍事指導者ヤレーマ・ヴィシニョヴィエツキの息子
ヤン3世ソビェスキソビェスキ家1674年 - 1696年最も有名なポーランド王の一人
アウグスト2世モツヌィヴェッティン家1697年 - 1706年ザクセン選帝侯
退位
スタニスワフ・レシチニスキ
(スタニスワフ1世)
レシチニスキ家1706年 - 1709年アウグスト2世に譲位
アウグスト2世モツヌィヴェッティン家1709年 - 1733年復位
スタニスワフ・レシチニスキレシチニスキ家1733年 - 1736年復位
ポーランド継承戦争で敗退
退位し、ロレーヌ公となる
アウグスト3世サスヴェッティン家1734年 - 1763年アウグスト2世の息子
ザクセン選帝侯
スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ
(スタニスワフ2世アウグスト)
ポニャトフスキ家1764年 - 1795年ヨーロッパ初の民主主義成文憲法5月3日憲法を制定し、立憲君主制を創始
第3次ポーランド分割による共和国消滅とともに退位

分割後のポーランド地域を支配した諸外国の君主

支配者ポーランド語の呼び名王家治世付記

ガリツィア・ロドメリア王

マリア・テレジアマリア・テレサハプスブルク家1772年 - 1780年第1次ポーランド分割で世襲領オーストリアに併合した地域にガリツィア・ロドメリア王国を創設
ヨーゼフ2世ユゼフ2世ハプスブルク=ロートリンゲン家1780年 - 1790年
レオポルト2世レオポルト2世ハプスブルク=ロートリンゲン家1790年 - 1792年
フランツ2世フランチシェク2世ハプスブルク=ロートリンゲン家1792年 - 1835年
フェルディナント1世フェルディナント1世ハプスブルク=ロートリンゲン家1835年 - 1848年
フランツ・ヨーゼフ1世フランチシェク・ユゼフ1世ハプスブルク=ロートリンゲン家1848年 - 1916年
カール1世カロル1世ハプスブルク=ロートリンゲン家1916年 - 1918年

ワルシャワ公

フリードリヒ・アウグスト1世フリデリク・アウグストヴェッティン家1807年 - 1815年アウグスト3世の孫息子
ザクセン選帝侯
ワルシャワ公国は1807年にナポレオンの衛星国家として創設されたが、ウィーン会議の取り決めで解体され、ロシア領ポーランド会議王国とプロイセン領ポズナン大公国に分割領有される

ポーランド会議王国の国王

アレクサンドル1世アレクサンデル1世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家1815年 - 1825年会議王国の呼び名はウィーン会議によって創設されたことから付いたもの
ニコライ1世ミコワイ1世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家1825年 - 1855年1831年の蜂起に際しポーランド議会により廃位を宣告される
1832年に会議王国の自治権を撤廃
アレクサンドル2世アレクサンデル2世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家1855年 - 1881年1863年の蜂起後、会議王国をロシアに併合
アレクサンドル3世アレクサンデル3世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家1881年 - 1894年
ニコライ2世ミコワイ2世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家1894年 - 1917年退位

ポズナン大公

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世フリデリク・ヴィルヘルム3世ホーエンツォレルン家1815年 - 1840年ウィーン会議によりポズナン大公国を創設
1831年までアントニ・ヘンリク・ラジヴィウを大公国の総督とする
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世フリデリク・ヴィルヘルム4世ホーエンツォレルン家1840年 - 1861年1849年に大公国の自治権を撤廃
ヴィルヘルム1世ヴィルヘルム1世ホーエンツォレルン家1861年 - 1888年
フリードリヒ3世フリデリク3世ホーエンツォレルン家1888年
ヴィルヘルム2世ヴィルヘルム2世ホーエンツォレルン家1888年 - 1918年退位

関連項目

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