プレ日本選手権
概要
新日本プロレスを創設したアントニオ猪木は、プロレスラーの実力日本一を決定する日本選手権大会の構想を長年計画しており、その準備段階として、新日本所属選手とフリーの日本人選手を中心としたリーグ戦『プレ日本選手権』の開催を発表した。しかし、新日本プロレスと冷戦状態にあった全日本プロレスのジャイアント馬場は猪木の呼びかけに応じず、当時提携していた国際プロレスに協力する形で、国際プロレスが同時期に開催した『日本リーグ争覇戦』にジャンボ鶴田らの選手を派遣、対抗意識を強めた。
しかしその後、国際プロレスと全日本プロレスの間に不協和音が生じたこともあり、『日本リーグ争覇戦』優勝者である国際プロレスのラッシャー木村が、代表の吉原功と共に、12月16日に蔵前国技館で行われた『プレ日本選手権』決勝大会に来場し、両リーグ戦の優勝者同士による真の日本一決定戦をアピール。12月26日には新日本プロレスと国際プロレスによる『日本選手権シリーズ』を翌1979年に開催することを発表し、馬場にも出場を要請したが、馬場の出場はもちろん日本選手権シリーズも実現には至らなかった[1]。
大会は、ヒロ・マツダをリーダーとしたフリー選手による「狼軍団」[2]と新日本プロレスとの軍団抗争の様相を呈したが、その戦い方を巡って狼軍団内部にも対立が生じ、ストロングスタイル主体のヒロ・マツダ派とラフファイト主体の上田馬之助派に分派するという騒動もあった。
大会方式
大会は予選リーグと、決勝トーナメントに分かれていた。
関連項目
- プロレス夢のオールスター戦 - 新日本プロレスと国際プロレスによる日本選手権が実現しなかった一因。1979年開催。
- オープン選手権 - 全日本プロレスが国際プロレスやヒロ・マツダの協力のもと新日本プロレスに参加を呼びかけたが、新日本の参加は実現せず。1975年開催。
脚注
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