ブリトン人の歴史

ブリトン人の歴史』(ブリトンじんのれきし、ラテン語: Historia Brittonum)は、イングランドアングロサクソン朝の七王国時代に編纂された、ケルト系ブリトン人が国を支配していた時代についての歴史書らしき本である。原書は828年頃に成立。伝ネンニウスの著。アーサー王伝説に関する最古級の資料として重視されている。

従来出版されてきた編書・訳書では伝ネンニウス作とされてきたが、これに関しては疑義があり[1]、近年では作者不明の著書として扱う傾向が顕著になっている[2]#著者と年代特定の節は後述する)。原作の写本は、11世紀以降、40点ほどが現存している。

概要

作中では、ブリテン島の開拓がトロイアからの渡来人によっておこなわれたとし、ブリテンの国名も、アイネイアースの子孫ブルートゥスにちなんで命名されたと説く。また、「ジェフリー・オブ・モンマスが、『ブリタニア列王史』を創作するときに使用した一大資料」[3]でもあり、こうしたトロイア起源説などブリテン先史の部分は、そのまま中世の英国の史書(例: Brut of England こと The Chronicles of England, 1400年頃)に引き継がれている。

この作品はまた、アーサー王に関する具体的な内容を確認できる最古の資料としても重要視され、アーサー王が戦ったという12の会戦を記録する(うち2つの会戦は『カンブリア年代記』で年代が特定できる)。『ブリトン人の歴史』の作中では、伝説のアーサーは一介の「軍の指揮官」(dux bellorum)または「戦士」(miles)にすぎず、「王」とされてはいないことも(その作成期の古さの傍証として)留意すべきである(#アーサー「王」伝説の節を参照)。

また、ある会戦ではアーサーが聖母マリアの像を「肩に」担いだという描写があるが、近代の解説者は、アーサーの「盾に」マリア像が掲げられていたという意味であるはずを、ウェールズ語では「肩」と「盾」の単語が近似するため取り違えたのだ、と考察している[4]

構成

校訂版の編者であるラテン学者テオドール・モムゼンは、作品を次のように序・七部に分けた。

  • 序文 Prefatio Nennii Britonum
  • I. 世界の6つの時代 de sex aetatibus mundi(§1-6章)
  • II. ブリトン人の歴史 historia Brittonum(§7-49章)
  • III. パトリキウスの生涯 vita Patricii(§50-55章)
  • IV. アーサー王関連(§56章)
  • V. 王の系譜 regum genealogiae cum computo (§57—66章)
  • VI. ブリタニアの都市 civitates Britanniae(§66a章)
  • VII. ブリタニアの驚異 de mirabilibus Britanniae(§67—76章)

アーサー「王」伝説

前述したように『ブリトン人の歴史』では、アーサーは王とされず、軍事指揮官であり、身分もそう高くはないと説明されている。編者モムゼンの分類では、アーサー本人に関する記述は、たった一章(§56章)のみである。だが広義にみれば、作中に登場する「マーリン・アンブロジウス」(§42章)(もっとも「マーリン」の名は使われないが)はもちろん、ヴォーティガン王(§31-49章)も、立派なアーサー王伝説の重要人物らである。

ヴォーティガン

ヴォーティガンがブリテンの国王に即位し、ウォーデンの血筋をひくホルサとヘンギストが率いるサクソン人を招きいれた。「キリスト受難より447年(+35=西暦482年)」のことである(31章)[5]

聖ゲルマヌス

ブリタンニアへ来たガリアの司教オセールの聖ゲルマヌスの聖人伝。ヴォーティガン王は、自らの娘と通じて(婚姻して)子をなしたが、このことを僧侶のゲルマヌスになじられると、娘をそそのかし、僧侶こそがその父親だ、と偽証させた。しかしゲルマニウスは動じず、その子にたいし、「そなたの父となってしんぜようぞ、坊よ。そしてカミソリとハサミと櫛を(お前が)もってくるまで、お前を手放すまいぞ。お前にはおまえの実父にこれらのものを渡す権利があるのじゃ」と言った。すると坊は、ヴォーティガンのところにいき「お父様はあなたです。私の髪を切ってください」と言った。王は赤面し、怒りをあらわに立ち去った(つまり、ブリトンでは、上述のように、男の子が一人前になると、元服の儀式として、父親による髪切りの典礼がおこなわれていたことがわかる。ウェールズの物語『キルフッフとオルウェン』でも、主人公がアーサー王に髪切りの儀式を願い出る)。

マーリン

ヴォーティガンはスノードン山の近くにディナス・エミリュス(Dinas Emrys)という城砦を築こうとしたが、うまくいかなかった。これを解決するために彼はアウレリウス・アンブロシウスと戦ったという。モンマスのジェフリーはこの話を彼とマーリンの話に置き換えている。

アーサー王の戦い

56章にアーサー王が関わったとされる12の戦いを並び立てた詩の要約と思われるものがあるが、いくつかはアーサー王との関連性がはっきりとしない。

アーサーが、ブリテン島の諸王と総力をあげたなかにくわわり、サクソン人と戦ったのもこの頃である。より高貴な者も幾多あるなか、アーサーが12回において軍事総統(dux bellorum) に選ばれ、同じ回数において勝者となった。最初におもむいた会戦はグレイン(Glein)川河口にて。第2、第3、第4、第5の会戦は、これとは別の川、リンヌイス(小国)(Linnuis)にある、ブリトン人の呼び名でドゥブグラス(Dubglas)という川のそばだった。第6はバッサス(Bassas)川。第7はケリドン(Celidon)の森でおきた、ブリトン人が「カト・コイト・ケリドン(Cat Coit Celidon)」と呼ぶ会戦だった。第8はグルニオン(castello Gunnion; Gurnion castle)城ちかくだったが、ここでアーサーは自らの肩に聖処女、神母の御神像を掲げ、イエス・キリストと聖マリアの御力を通じてサクソン人たちを敗退せしめ、彼奴等をまる一日追討し大殺戮をおこなった。第9はカイル・レオン(Cair Leon)と呼ばれる「レギオンの都市」。第10はトリブルイト(Triburuit)川。11回目は我々がカト・ブレギオン(Cat Bregion)と呼ぶ会戦で、ブレグオイン山(Breguoin; 異本ではアグネト山 Agnet)で行われた。12回目は最も激戦で、アーサーがベイドン山中まで突破したであった。この会戦では940人が、神以外の何者も手を借りず、彼のひとりの手で斃された。ブリトン人は、これらすべての会戦で勝利した。全能の神の思召しに抗がう力などないゆえに。56章

ここに書かれる戦場は、ほとんど場所の特定ができていない。コイト・ケリドンは、スコットランド南部をかつて覆った広大森を指すとされる。グルニオンとはウィンチェスターの事ではないかとしばしば指摘される。「地域(レギオン)の都市」が指すところとしては現イングランド北部のチェスターないしウェールズ南部のカーレオン(Caerleon)だと思われている。ブレグオインとは英語に直すと「白き丘」、すなわちダービーシャーのホワイト・ピーク(White Peak)の可能性が挙げられている。バドン山についてはイギリス国内でいくらでも候補が挙がっている。

驚異

『ブリトン人の歴史』の『ブリトンの驚異について(De mirabilibus britanniae)』(略して『驚異(Mirabilia)』)は、ブリトン各地に所在する、14ないし13の驚異的な名所を挙げた列記文である[6][7]。続いてアングルシー島(Menand insulae)の驚異と、アイルランドの驚異を少数挙げている[8]

『驚異』はじつは、もともとの作品にはなかった部だと考えられている[9]が、本篇からあまり時を経ずして成立したと考えられており[10]、多くの写本に付帯しているが、『驚異』を欠いた写本もある。

『ブリトン人の歴史』、驚異の部、§73章には、アーサー王関連の驚異が2件、紹介されている。

アーサーの犬カバル

次なる驚異は、ブエルト(現今のビルス・ウェルス町)という地域にある。石が山と積み重ねられていて、てっぺんには犬の足跡がついた石が置かれている。兵士〔つわもの〕アーサーの犬カバルが、トロイント(→トロイト)という猪を追っていたとき石につけた足跡だとされ、後にアーサーは石積みの小山を作りその上にキャバルの足跡のついた石を置いた。これをカルン・キャバルと呼ぶ。人々は来て昼夜にかきえてその石を持ち去り、翌日積み上げられた石山の上に乗せられた。73章

アーサーの息子アムル

次なる驚異は、エルキング(エルギング; 英名:en:Archenfield)と呼ばれる地域にある。「リカト・アニル」(→アミル)と呼ばれる泉の隣に墓(石棺 sepulchrum)がある。墓にはアニル(→アムル)という者が葬られている。兵士〔つわもの〕アーサーの息子であるが、アーサー本人が殺し、まさにこの場所に埋葬したと言う。人々がやって来て墓を測ってみると、ときには6フィートの長さがあり、ときには9フィート、12フィート、または15フィートあった。いちど測った長さが、二度目に測ると同じ長さにならない。これは私自身も、試しにやってみたことである。 73章

注:ハーレー本では、アーサーの息子の名はアニル(Anir)であり、一昔前の書籍ではそちらの綴りが使われてきたが、近年では異本読みのアムル(Amr, ウェールズ語形の Amhar により近い)を採用するようになっている。また、猪名も同様にハーレー本Troyntよりも異読みTroitの方が好ましい。これらはフレッチャー(1906年)らの指摘[11]による。

著者と年代特定

『ブリトン人の歴史』が作品として成立した年代は、828年 - 830年と特定されている。作中の第16章に「メルメヌス(Mermenus)王の在位4年目」とあるので、作品はこれ以前ではありえない。これはグゥイネッズ国王メルヴィン・ヴリッヒのこととされ、在位4年目は、史家のあいだで古くとも828年とされるので、遡及可能な年代上限 (terminus post quem) がこれで特定される。次に第4章に、執筆当時が「キリスト受難より796年目、その受肉(降誕)より831年が経過している 」とあるのも、上の年代とほぼ合致する[12][13][14][15]

『ブリトン人の歴史』の一部の写本群には、ネンニウスによる序文、あるいはネンニウスによる弁明文(apolgia)が述べられているため、この作品は、便宜上、伝ネンニウスの作、とされてきたが、早期の編者たちにも、この作品が必ずしもネンニウスを原作者に特定できないことはわかっていた[16]

実際、作品が伝わる写本でも、様々な人物が作者とされている。これは以下に述べる。

稿本・写本・出版編本

  • 現存する最古写本は大英図書館所蔵ハーレー写本(Harley 3859)で、かつては11世紀のものとされてきたが、近著では 1100年頃となっている[17]。この写本は「ネンニウスの序文」を欠き、著者の名には一切触れられていない。従来、もっとも内容が原書に近い写本とされており、Stevenson 編本、 Mommsen 校訂本、Morrison 編新版の底本にされている。
  • 『伝ネンニウス作の稿本』(Nennian recension)の代表例は、ケンブリッジ公立図書館Ff. I.27写本で、これはPetrie編本で底本に使われる[18]
  • ヴァチカン本(Vatican 1964 写本)は、Gunn編抄訳本に使用されるが、その作者は隠者マルコ(anachoreta Marco)とされる[19]
  • Giles編訳本は、 Gunn編抄訳本を元にしているというが、Vatican 写本(Mommsen の略号だとM本)にない「ネンニウス弁明文」や「驚異」も掲載するので、いくつかの写本を複合した拡張本ともいえる。
  • シャルトル本(Chartres 98写本)は、他の写本群に比べて特異な内容をもち、推定9世紀 - 10世紀とハーレー本よりもずいぶんと古い一点だったが、第二次世界大戦で逸失した。シャルトル本では、作者は「ウリエンの息子」(filius Urbagen)となっている[20]
  • 『伝ギルダス作の稿本』(Gildasian recensions)には、例えば大英図書館所蔵Cotton Caligula A. VIII写本などがある[21]。だが、『ブリトン人の歴史』が、アーサー王と近い時代に生きたギルダスによる真正の執筆だとは、いまどき真面目に考えられてはおらず、じっさい、『ブリトン人の歴史』のラテン語の文体は、ギルダス流の文章よりもずいぶんと粗雑だといわれる[22]

この作品の校定学的な研究者、デビット・ダンヴィルダンヴィルのヴァチカン本 の編書がDumville 1985である)は、「ネンニウス序文」は後世の偽作であると断定し[2]、これはネンニウスのような作者が単独で著したものではなく、次第に加筆がされるうちに、のちの作品の姿を形成していった「無名の作」だと提唱する[1]。ダンヴィルの見解支持がいまや趨勢になっているが、異論も唱えられている[23]。過去にネンニウス作者説を論じたものに、リーバーマン(Liebermann 1925)がある。

原作者の意図

近年では、『ブリトン人の歴史』を紹介または解説するときに、「古編者が手当たり次第の資料を積み上げて作成したものだ」と述べるのが慣例のようになっている。この文句は「ネンニウス序文」のL系統本で「ネンニウスの弁明文(apologia)」と題される文章からとられている[24]Giles 1848編訳にも掲載[25])。以下意訳する。

エルウォドゥグス(羅: Elvodugus)の弟子である私、ネンニウスは、ブリトンの国が愚鈍さの故投げ出していた、抜粋文を書き留める試みを企てました。ブリテン島の学者は学識を欠き、何の記録も本に残しておりません。そのため私は、ローマ人の年代記からも、神聖なる教父たちの史書からも、ゲール人やサクソン人の記録からも、古老の伝承からも[22]、見つけた全てのものを積み上げました。『ブリトン人の歴史』「ネンニウス序文(弁明文)」

考古学レズリー・アルコック (1971年)は、この序文を引用して作品を「積み上げ(heaped together)」と称して説明したが[26]、この時期を境に、この表現を使う例が増えたようである。しかしアルコックよりも古い用例も散見される。

このほかにも編纂者の意図にあったのは、中世アイルランドではすでに作成されていた偽史『アイルランド来寇の書』等にならい、史料と「同期をとった(シンクロナイズした)」史書仕立ての文献を、伝説をもとに作り出すことであった。

参照

脚注

  1. Mackillop 1998, Dict. Celt. Myth.,p.267 "Formerly ascribed to one Nennius, Historia is now, seen, thanks to the work of David Dumville, to be a compilation.."
  2. Koch 2006, p.927 "Dumville has argued that the Nennian Prologue is a later forgery.. the work should therefore be treated as anonymous"
  3. Koch 2006, p.925.
  4. Fletcher 1906 で "shield" (ウェールズ語: ysgwyd, Middle Welsh: scuit) and shoulder (ウェールズ語: ysgwydd), citing J. William's edition of the Annales Cambriae, (1860), p.xxiv; and Skene, Four Ancient Books(1868), I, 55.
  5. Gunn 1848, p.18.
  6. ラテン語版を数えると、14件だが(R 1830の英訳参照)、アイルランド語版だと13件あり、 Todd 1848, p.114注では、いわゆる「ブリテンの十三至宝」(Thirteen tlysau) と比較している。
  7. ラテン原典では第四の驚異 "Quartum miraculum"までしか数を示さず、それ以降は「またの驚異は..」(Aliud miraculum)"と綴っている。モムゼン校訂本では、隣列にNennius interpretatus と称して、Zimmer によるアイルランド語版のラテン語訳を対比掲載している
  8. See R 1830, Cambrian Quarterly 第2巻には、アングルシー島とアイルランドの驚異を含む英訳あり
  9. Stevenson 1838, p.56, note 3.
  10. e.g., Geoffrey Ashe, under entry "Nennius", in: Lacy, Norris J., ed., The Arthurian Encyclopedia", Peter Bedrick Books, 1986
  11. Fletcher 1906 Note p.320.
  12. Koch 2006,p.926
  13. Dumville, "Some aspects of the chronology." 439-45.
  14. N.J.ハイガム:Higham, N. J., King Arthur: Myth Making and History (London: Routledge & Kegan Paul, 2002).
  15. ネンニウスの序文には、執筆当時が「主キリストの降誕より858年、ブリトン王メルヴィンの在位24年目にして」とあるのだが、この序文は、後年に書かれたものということか。
  16. たとえば、Gunn編本にの題名でも"commonly ascribed to Nennius(一般においてネンニウスに帰属される作)"という言い方がされ、Mommsen編本も"cvm additamentis Nennii"「ネンニウスによる加筆のあるブリトン人の歴史」と題する
  17. Koch 2006, p.926. ジェフリー・オブ・モンマスの著作(1136年)より古い写本なら問題ないのだが、より新しいとなると、ジェフリー作品から知り得た知識が挿入された可能性が出てきてしまい、考察がややこしくなる。
  18. この同じ写本にはじつは、第二の『ブリトン人の歴史』稿本(伝ギルダス作の稿本)も綴じられているHardy 1862, #777, p.319.
  19. Hardy 1862, Descriptive Catalogue; また各編本も参照。
  20. Koch 2006, p.926
  21. Manuscripts Catalog”. British Library. 2012年3月11日閲覧。
  22. Lacy 1986, p.404.
  23. Koch 2006.
  24. Mommsens 1898, p.143, C2D2GL本"Ego Nennius Elvodugi discipulus..以下"。「弁明文 (Apologia)」 の題名(インキピット)は L本にあるほか、C2の欄に後の筆跡で書かれている。
  25. Giles 1848 第2巻, p.303, Apologia, "Ego autem coacervavi omne quod inveni tam de annalibus Romanorum.."); 英訳, 第1巻, p.384, "But I have got together all that I could find as well from the annals of the Romans "; 使っている訳例は、Morris 英訳から抜粋したもの wikiquote:Historia Brittoumを参照)
  26. Alcock 1971, p.32では、さらにこの「積み上げた」の比喩を展開して、次のように語っている。「記念碑のように積み上げられた石のようで、均等でなく、組み立ても粗雑だ.....歴史家の仕事の類としては全くでたらめだ。しかし、この短所にはある種の価値がある。我々は積み立てられた記念碑のひとつひとつを見る事ができるし、場合によってはその断片を手にしてもともとあった姿を追ってもともとの時代とあるべき姿を構築させる事ができる。」

参考文献

(驚異のみ)
  • (英訳) R. (1830), “The Wonders of the Island of Britain” (google), Cambrian Quarterly Magazine and Celtic Repertory 2: 60-63, https://books.google.co.jp/books?id=3KI2AAAAMAAJ&pg=PA60
  • (英訳) Barber, Richard (1999), “On the Marvels of Britain”, Myths and Legends of the British Isles (New York: Barnes and Noble Books): pp. 85-88, ISBN 0760719594
(原書・訳書)
(事典)
(写本目録)
(研究・批評)
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