フリオ・オラルティコエチェア
フリオ・ホルヘ・オラルティコエチェア(Julio Jorge Olarticoechea, 1958年10月18日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィールダー(ウイングバック)。
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名前 | ||||||
本名 |
フリオ・ホルヘ・オラルティコエチェア Julio Jorge Olarticoechea | |||||
愛称 | El Vasco | |||||
ラテン文字 | Julio OLARTICOECHEA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1958年10月18日(64歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
身長 | 170cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF / MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1976-1981 | ラシン・クラブ | 230 | (13) | |||
1981-1987 | リーベル・プレート | 106 | (3) | |||
1985-1986 | ボカ・ジュニアーズ | 44 | (4) | |||
1987 | ナント | 27 | (3) | |||
1987-1988 | アルヘンティノス | 25 | (2) | |||
1988-1990 | ラシン・クラブ | |||||
1990-1992 | マンディユー | 61 | (4) | |||
代表歴 | ||||||
1983-1990[1] | アルゼンチン | 28 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
アルゼンチン 女子 | ||||||
2016 | アルゼンチン U-20(暫定) | |||||
2016- | アルゼンチン 五輪 | |||||
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経歴
FIFAワールドカップに3大会連続で代表メンバー入りを果たし、1986年大会ではディエゴ・マラドーナらと共に優勝に貢献した[2]。
現役引退後はブエノスアイレス州のサラディージョでサッカースクールを経営していた[3]。2016年時点ではアルゼンチン女子代表の監督を務めていたが、同年5月にU-20アルゼンチン代表の暫定監督に就任した[4]。同年7月にA代表と五輪代表監督を兼任していたヘラルド・マルティーノが辞意を表明したことを受けてアルゼンチン五輪代表の監督に就任し[4]、同年8月にブラジルで開催されたリオデジャネイロオリンピックに挑んだが、パウロ・ディバラやマウロ・イカルディらを招集できず[5]、グループリーグ敗退という結果に終わった[2]。
個人成績
脚注
- “Olarticoechea, Julio”. National-Football-Teams.com. 2016年10月29日閲覧。
- “アルゼンチン五輪代表監督、協会の給与未払いで娘から借金”. afpbb.com (2016年8月14日). 2016年10月31日閲覧。
- “Argentina '86: Where are they now: Football”. Telegraph (2008年11月18日). 2016年10月31日閲覧。
- “オラルティコエチェア氏がアルゼンチン五輪代表の指揮官に就任”. ザ・ワールド (2016年7月6日). 2016年10月31日閲覧。
- “マルティーノ辞任でチームはオラルティコエチェア監督に委ねられる”. GOAL.com (2016年7月7日). 2016年10月31日閲覧。
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