フョードル・フンチコフ

フョードル・アドリアノヴィチ・フンチコフロシア語: Фёдор Адрианович Фунтиков, ラテン文字転写: Fyodor Adrianovich Funtikov1875年頃 - 1926年5月5日)は、ロシア内戦期の政治家である。1918年から翌年にかけて、ロシア帝国ザカスピ州だった場所に存在したザカスピ暫定政府 (ru) で委員長を務めた。

フョードル・アドリアノヴィチ・フンチコフ
Фёдор Адрианович Фунтиков
絵の左側、銃殺隊のすぐ背後で上体をこちらに向け前屈みになった、白い襟の黒服の男がフンチコフ
(イサーク・ブロツキーの絵画、「26人のバクー・コミッサールの処刑」(1925年)より)
生年月日 1875年
出生地 ロシア帝国サラトフ県
没年月日 1926年5月5日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国バクー
前職 カスピ海横断鉄道機関士
所属政党 社会革命党

ザカスピ暫定政府
委員長
在任期間 1918年7月12日 - 1919年1月15日

生涯

1875年ないし翌年に、ロシア帝国サラトフ県の農家に生まれた[1]。元はカスピ海横断鉄道の機関士であり1915年から社会革命党員だったが[1]、1918年7月11日から12日にかけてアシガバードで発生した反ボリシェヴィキ蜂起 (ru) で指導者の1人となった。そして12日に社会革命党、メンシェヴィキソビエト議員 (de) などの労働者によって構成されたザカスピ暫定政府ストライキ委員会の委員長に選出された。23日にはアシガバード・コミッサール (ru) の処刑にも関与した。

同月28日、暫定政府の反乱軍がチャルジョウでの武装闘争に敗れると、フンチコフはマシュハドに駐留していたイギリス軍のウィルフレッド・マレソン (ru) 将軍に助けを求め、8月19日に正式に支援の約束を取り付けた。マレソンは連合国の指揮を引き継いだノールス (Ноллис) 大佐率いる2千人のセポイを派遣したが、これが原因となってフンチコフは後世のソ連の歴史家からイギリス傀儡であると見なされるようになった。

9月19日、フンチコフはいわゆる「26人のバクー・コミッサール」の処刑に関して結論を出すクラスノボツクでの会議に出席した。

翌年にアシガバードでの労働者の騒乱が発生し、1月15日にフンチコフは「公安委員会」(Комитетом общественного спасения) の5人組によって汚職の罪で逮捕された。2月1日にはザカスピ暫定政府も倒された。やがて社会革命党中央委員会によって人民委員らの処刑についての調査が始まると、フンチコフは調査員である元中央委員のヴァジム・ チャイキン (Вадим Чайкин) に「そういったことが起こるのは分かっていた。だが止める手立てはなかった。処刑が決定されたのは、イギリスが任務の遂行に固執したからだ」と語った。フンチコフはマレソンと縁深いイギリス軍連絡将校のレジナルド・ティーグ=ジョーンズ (en) 大尉と、治安組織のドルシュキン (Дружкин) に責任があると非難した。だが他の逮捕者であるセディフ (Седых) はチャイキンに対し、フンチコフは「すべてを理解していた」と述べた。

その後間もなくフンチコフは釈放され、1922年からヴォルガの低地にフートル(小さな農場)を営んで暮らした。しかし1925年1月、娘に恵まれた直後に[2]ボリシェヴィキによって逮捕され、翌年4月にバクーで開かれたソビエト連邦最高裁 (ru) の出張裁判にかけられた[3]。検事はセルゲイ・カフタラーゼが務めた[3]。フンチコフは死刑を宣告され、恩赦も認められず、ほどなくバクーで銃殺された。

人物評

サー・ウィルフレッド・マレソンの回顧録には、フンチコフについて次のような記述がある[4]

暫定政府のトップにいたのはフンチコフとかいう男だった。陽気な機械工だったが、残念ながらウォトカ中毒で、700万ルーブルばかりの公金横領したと告発されて、結局首になった。

フンチコフの裁判に立ち合ったN. スミルノフ (Н. Смирнов) 司法大佐のエッセイにはこうある[5]

フンチコフはやや細面で太い髭を生やし、擦り切れたコートと靴を身に着けた中背の男だった。見下ろすような眼つきで法廷を見渡した後に、重い足取りで自分の席に腰を下ろした彼は、一見落ち着いているようでいて、そのゲジゲジ眉の下で目だけを疑り深く光らせていた。……裁判所からの質問にフンチコフは、簡潔に、ゆっくりと答えた。……その様子からは、彼がアシガバードの反革命的反乱政権の長だった頃は、カールした口髭を持つ、一見横柄で鋭い眼つきだが陽気な男として知られていたということは窺い知れなかった。

脚注

  1. ア・イ・ミコヤン 著、小川政邦、上田律 訳『ミコヤン回想録1 バクー・コンミューン時代』河出書房新社、1973年、243頁。
  2. Станислав ТАРАСОВ.. Последняя интрига Анастаса Микояна”. 2013年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月19日閲覧。
  3. ア・イ・ミコヤン 1973, p. 259.
  4. У. Маллесон.. Двадцать шесть комиссаров”. Fortnightly Review. 2009年6月19日閲覧。
  5. Полковник юстиции Н. Смирнов. (1979). "Дело об убийстве бакинских комиссаров". Неотвратимое возмездие: По материалам судебных процессов над изменниками Родины, фашистскими палачами и агентами империалистических разведок (2-е изд., доп ed.). М.: Воениздат. pp. 58–71.

関連項目

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