デルヴィシュ (ウイグル人)
概要
デルヴィシュは初期のモンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人のタブンの息子のアルキシュ・テムルの孫で、幼い頃より読書を好む人物であった。デルヴィシュは早くからテムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)の親衛隊(ケシクテイ)に仕え、河西廉訪司僉事・監察御史・淮西廉訪副使・中書左司員外郎・枢密院参議・枢密院判官などを歴任した[1]。
1317年(延祐4年)には翰林侍講学士の地位を授かり、河間路の総管となった。この頃飢饉が起こったため、デルヴィシュは官庫の貯蔵物を出して数10万人の命を救ったとされる。河間路は水陸の要衝でもあり、交通状況の改善や、弓馬尉を増設することによる盗賊の減少などの功績を残した。陵州で凶悪な盗賊が怒った時には首魁を捕らえて獄中に入れた。最後には遼陽行省参知政事に至ったが、引退して息子のソユルガトミシュが後を継いだ[2]。
脚注
- 『元史』巻124列伝11塔本伝,「迭里威失、少好読書、成宗時入宿衛、授河西廉訪司僉事、拝監察御史、遷淮西廉訪副使、召為中書左司員外郎、改枢密院参議、陞判官」
- 『元史』巻124列伝11塔本伝,「延祐四年、授翰林侍講学士、出為河間路総管。属歳饑、出俸金及官庫所積賑之、活数十万人。河間当水陸要衝、四方供億皆取給焉、迭里威失立法調遣、民便之。復建言増置便習弓馬尉一人、益邏兵之数、於是盗賊屏息。陵州群凶為官民害、悉収繋死獄中。後陞遼陽行省参知政事。子鎖咬児哈的迷失」
参考文献
- 『元史』巻124列伝11塔本伝
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.