ティベリウス・コルンカニウス
ティベリウス・コルンカニウス (ラテン語: Tiberius Coruncanius 生年不詳 - 紀元前241年死去) は、紀元前280年の共和政ローマ執政官で、同僚が敗北した後エペイロスのピュロスの攻撃に対応した。彼はまた古代ローマで初のプレブス出身最高神祇官でもあり、恐らくローマ法の公共教育に携わった初の教育者でもある[1]。
ティベリウス・コルンカニウス Tiberius Coruncanius (Ti. Coruncanius Ti. f. Ti. n.) | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前241年 |
出身階級 | プレブス |
官職 |
執政官(紀元前280年) 最高神祇官(紀元前254年~) 独裁官(紀元前246年) |
略歴
コルンカニウスはプレブスの出で、トゥスクルム出身と考えられている[2][3]
紀元前280年、プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスと共に執政官に選出されると、エトルリア都市群に対する遠征軍を率い、ウォルスキとウルキに勝利してその年の2月1日に凱旋式を挙行している[4][5]。ピュロスがイタリア半島に侵入し、ヘラクレアの戦いでラエウィヌス率いるローマ軍団を破ると、ティベリウスの軍団はローマ領防衛のためローマに召還された[5]。
紀元前254年、もしくはその翌年に、彼はプレブス出身としては初めて、それまでパトリキに独占されていた最高神祇官、もしくはそれに近い地位の神官に選出された[6]。 紀元前246年には選挙のための独裁官に指名されている[7]。
紀元前241年に死去すると、後継者としてプレブス出身のルキウス・カエキリウス・メテッルスが選出された。
影響
彼は神官に独占されていたローマ法の知識を一般に広めた最初の一人として、そして雄弁家であり博識家としても知られるが[8]、ソクラテスと同じく著作は残さなかった。
彼の法に関する公的教育は、神官以外にも法に通暁した、ある種のコンサルタントのような職業 (法律学者 jurisprudentes) を生み出した。 コルンカニウスの死後、教育は徐々に公式なものとなり、それまでの貧弱な正規の文献より詳しい、ローマ法の概略本も用いられるようになっていった[9]
初のプレブス出身最高神祇官として、コルンカニウスは一般人やローマ法の学生にも、彼が人々に対して法的アドバイスを行う場面に立ち会う事を許可した。こういった教育は恐らく神官学校の外で行われ、そのため関心がある人は皆参加出来た。 こうした事から、彼はローマ法の最初の教師と呼ばれる (彼以前の学生がどのように法を学んでいたかは不明である)[3]。キケロは『大カトー・老年について』の中で、コルンカニウスはデンタトゥスやファブリキウス・ルスキヌス、デキウス・ムスらと交友関係があり、アエリウス・パエトゥスやリキニウス・クラッススらと並べてローマ市民に法律を教えた人物の一人としている[10]
脚注
- G・ヴィーコ『新しい学(下)』中公文庫、2018年、482頁。
- キケロ『プランキウス弁護』8.20
- 凱旋式のファスティ
- ブロートン, p191.
- ブロートン, p210.
- ブロートン, p216.
- George Long article, p. 655 of A Dictionary of Greek and Roman Anqiquities by William Smith. John Murray, London 1875.
- Unknown. "legal education." Encyclopædia Britannica. 2007. Encyclopædia Britannica Online. Retrieved 4 March 2007 <http://secure.britannica.com/eb/article-9106475>.
- キケロ『大カトー・老年について』27
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
公職 | ||
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先代 ルキウス・アエミリウス・バルブラ、 クィントゥス・マルキウス・ピリップス |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前280年 同僚 プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス |
次代 プブリウス・スルピキウス・サウェッリオ、 プブリウス・デキウス・ムス |
宗教の称号 | ||
先代 不明 |
ローマの最高神祇官 紀元前254年 – 紀元前241年 |
次代 ルキウス・カエキリウス・メテッルス |