スラニー・マリンガ

スラニー・マリンガThulani Malinga、男性、1955年12月11日 - )は、南アフリカ共和国プロボクサークワズール・ナタール州レディスミス出身。元WBC世界スーパーミドル級王者。バンタム級で1位になったことがあるヴィシー・マリンガと元南アフリカライト級王者パトリック・マリンガは甥に当たる。トレーナーはニック・デュラント[1]

スラニー・マリンガ
基本情報
本名 スラニー・マリンガ
通称 Sugar Boy(シュガー・ボーイ)
階級 ライトヘビー級
身長 177cm
国籍 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
誕生日 (1955-12-11) 1955年12月11日(67歳)
出身地 クワズール・ナタール州レディスミス
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 57
勝ち 44
KO勝ち 19
敗け 13
引き分け 0
無効試合 0

来歴

1981年8月8日、マリンガはスーパーミドル級のウェイトでプロデビューを果たし初回TKO勝ちを収め白星でデビューを飾った。

1981年11月30日、ウェーディ・ジャコブスと対戦し4回KO勝ちを収めた。

1982年4月17日、パトリック・ツシャバララと対戦し初黒星となる6回判定負けを喫した。

1982年6月5日、モーリス・モーロイと対戦し6回判定勝ちを収めた。

1982年9月13日、シャドラック・シトレと対戦し2回KO勝ちを収めた。

1983年2月7日、サムソン・モフロアイと南アフリカミドル級王座決定戦を行い12回3-0(117-112、117-111、118-114)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

1984年6月15日、マイケル・モツォアーネと対戦し12回3-0(118-113、116-115、116-114)の判定勝ちを収め初防衛に成功した。

1985年3月15日、ギャビン・ストリップと対戦し2回KO勝ちを収めた。

1985年6月22日、フランキー・デキャエテカーと対戦し5回終了時棄権によるTKO勝ちを収めた。

1985年12月14日、コーシー・ヴァン・ヴァーレンと対戦し10回終了時棄権によるTKO勝ちを収め2度目の防衛に成功した。

1986年3月8日、ピーター・デ・ブルーインと対戦し8回TKO勝ちを収め3度目の防衛に成功した。

1986年6月28日、ヨハネスブルクのエルドラド・パーク・スタジアムでグレゴリー・クラークと対戦し12回3-0(2者が117-115、117-113)の判定勝ちを収め4度目の防衛に成功した。

1986年10月19日、南アフリカライトヘビー級王者サッキー・ホーンと対戦し12回判定勝ちを収め南アフリカ王座の2階級制覇を達成した。

1986年12月15日、フレディー・ラッフェルティーと対戦し12回3-0(118-112、117-116、117-115)の判定勝ちを収め初防衛に成功した。

1987年5月9日、前王者のサッキー・ホーンと7ヶ月ぶりに対戦し12回1-2(117-114、114-116、114-118)の判定負けを喫し2度目の防衛に失敗し王座から陥落した。

1987年11月21日、南アフリカライトヘビー級王者サッキー・ホーンと4ヶ月ぶりに再戦したが最終12回失格負けを喫し4ヶ月ぶりの王座返り咲きに失敗した。

1988年2月1日、ハリー・コワップと対戦し10回3-0(100-91、100-90、99-91)の判定勝ちを収めた。

1988年3月7日、ジム・マクドナルドと対戦し10回3-0(100-92、2者が98-93)の判定勝ちを収めた。

1989年1月27日、ベルリンのデウツチランド・ハーレでIBF世界スーパーミドル級王者グラシアノ・ロッシジャーニと対戦し12回0-3(111-117、113-119、112-119)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

1989年5月27日、サンシティのスーパーボールでニッキー・ウォルカーと対戦し10回3-0(2者が98-92、98-93)の判定勝ちを収めた。

1989年9月18日、ビンセント・ボウワーレと対戦し10回2-0(97-96、96-95、96-96)の判定勝ちを収めた。

1989年10月21日、ホセ・クイノネスと対戦し8回TKO勝ちを収めた。

1990年1月29日、トニー・ハリソンと対戦し10回3-0(100-92、100-91、100-93)の判定勝ちを収めた。

1990年8月5日、IBFインターコンチネンタルスーパーミドル級王者ジョン・ジャービスと対戦し12回0-2の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

1990年10月11日、ヨハネスブルクのナスレック・インドア・アリーナで南アフリカライトヘビー級王者サッキー・ホーンと3年ぶりに対戦し12回判定勝ちを収め3年5ヶ月ぶりの王座返り咲きに成功した。

1990年12月15日、ラツィオのパラッゾ・デル・ギヒアッシオでIBF世界スーパーミドル級王者リンデル・ホームズと対戦し12回0-3(2者が112-116、113-117)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

1991年8月13日、レオナルド・フリードマンと対戦し10回判定勝ちを収めた。

1992年2月1日、WBO世界スーパーミドル級王者クリス・ユーバンクと対戦し12回1-2(112-116、115-112、113-115)の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

1992年5月23日、ナイジェル・ベンと対戦し痛恨の躓きとなる10回97.5-98の判定負けを喫した。

1992年9月14日、ナスレック・インドア・アリーナでジム・ムラーと対戦し12回2-0(118-111、117-113、117-117)の判定勝ちを収め南アフリカ王座の返り咲き後初防衛に成功した。

1993年2月10日、ゲーリー・バッランドと対戦し12回3-0(117-114、116-112、116-114)の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。

1993年8月14日、後の世界4階級制覇王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアと対戦し6回1分57秒KO負けを喫した。

1994年2月20日、モハメド・イサックスと対戦し7回KO勝ちを収め3度目の防衛に成功した。

1994年8月14日、レイ・アクアーイェとABUアフリカスーパーミドル級王座決定戦を行い、5回TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。

1994年11月20日、マーティン・オッペールマンと対戦し9回TKO勝ちを収め4度目の防衛に成功した。

1995年3月4日、カルセール・カジノでブヤニ・ブングVSモハメド・ヌルーフダの前座で後にディンガン・トベラに引導を渡すソーン・ボーテスと対戦し7回TKO勝ちを収めた。

1996年3月2日、WBC世界スーパーミドル級王者ナイジェル・ベンと3年10ヶ月ぶりに対戦し12回2-1(118-109、114-112、111-115)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

1996年7月6日、マンチェスター・アリーナビンチェンツオ・ナルディエッロと対戦し12回1-2(116-111、112-114、112-116)の判定負けを喫し初防衛に失敗し王座から陥落した。

1997年12月19日、ニュー・ロンドン・アリーナでWBC世界スーパーミドル級王者ロビン・リードと対戦し12回3-0(117-113、115-114、117-112)の判定勝ちを収め1年5ヶ月ぶりの王座返り咲きに成功し、南アフリカのボクサーで最年長の42歳で王座戴冠となった。

1998年3月27日、リッチー・ウッドホールと対戦し12回0-3(109-118、111-117、110-118)の判定負けを喫し初防衛に失敗し王座から陥落した。

1998年6月5日、コペンハーゲンのK・B・ハーレンでWBF世界スーパーミドル級王者フレドリック・アルバレスと対戦し11回TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。

1998年11月27日、ピーター・マドソンと対戦し8回終了時棄権によるTKO勝ちを収めWBF王座の初防衛に成功した。

1999年3月19日、IBO世界スーパーミドル級王者マドス・ラーセンと対戦し10回TKO負けを喫しWBF王座の2度目の防衛に失敗、IBO王座獲得に失敗しWBF王座から陥落した。

2000年1月14日、オレ・クレメセンとIBA世界ライトヘビー級王座決定戦を行い、8回2分40秒TKO負けを喫し王座獲得に失敗した試合を最後に、現役を引退した。

2010年7月16日、デュラントと共にキャリアのほとんどを支えたジョシュア・モシュアが死去[2]

2017年4月21日、マリンガの現役時代のすべての試合を担当したトレーナーのデュラントがバイク事故により死去[3][4]

獲得タイトル

脚注

  1. Trainer Nick Durandt quits boxing fightnews.com2016年5月5日
  2. Well known SA trainer diesfight news.com 2010年7月16日
  3. South Africa Top SA boxing trainer Durandt dies sport24.com 2017年4月21日
  4. Nick Durandt dies in motorcycle accident FightNews.com 2017年4月21日

関連項目

外部リンク

前王者
ナイジェル・ベン
WBC世界スーパーミドル級王者

1996年3月2日 - 1996年7月6日

次王者
ビンチェンツオ・ナルディエッロ
前王者
ロビン・リード
WBC世界スーパーミドル級王者

1997年12月19日 - 1998年3月27日

次王者
リッチー・ウッドホール
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