ジョン・オーピー
ジョン・オーピー(John Opie RA、1761年5月16日 - 1807年4月9日)[1]は18世紀後半のイギリス、コーンウォール生まれの画家である。肖像画や歴史画を描いた。王立美術院の教授も務めた。
ジョン・オーピー John Opie | |
---|---|
自画像 | |
生誕 | 1761年5月16日 イギリス,Trevellas |
死没 | 1807年4月9日 イギリス,ウェストミンスター |
略歴
コーンウォールの町、Trevellasに生まれた[2]。父親は大工の親方で、早くから絵や数学の才能を示し、12歳の時に、貧しい子供のための学校を開くが、父親は喜ばず、大工の見習いに出された[3]。
オーピーの芸術的才能は地元の医師で風刺画家でもあったジョン・ウォルコット(John Wolcot:筆名:Peter Pindar)の注意を引き、ウォットコットは1775年に大工見習いをしているオーピーを訪ね、才能を認め、年期奉公を解消させ、自分の家に住まわせて教育を施し、肖像画の依頼をとって修行させた。[3][4][5]
コーンウォールで肖像画家としての経験を積んだ後、1781年にウォルコットとロンドンに出た[6]。はじめ、ウォルコットと契約し、仕事を取って貰った。ウォルコットは有名な画家、ジョシュア・レノルズたちに、独学の天才画家としてオーピーを売り込み、レノルズの賞賛を得た[5]。ウォルコットは人脈を使って、王室の人々にもオーピーを紹介し、国王、ジョージ3世もオーピーのメアリー・ディレイニーの肖像画を購入した。ウィリアム・ヘンリー王子ら王族の肖像画の注文を得ることができた。
1782年に王立美術院の展覧会に初めて出展し、その年アン・メイ(Ann May)という女性と結婚したが、最初の結婚はうまくいかず、1796年に離婚した。1798年に作家のアメリア・オールダーソンと知り合い再婚した。
最初の華々しい成功の後、急速に人気が落ちた。オーピーは技術を磨き、文学的な題材に取り組むようになり、1786年に最初の歴史画である『ジェームズ1世の暗殺』を描き、翌年『リッチオの殺人』を描いた。これによって王立美術院の準会員に選ばれ、1788年に正会員に選ばれた。1798年に再婚した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の場面を描いて出版するプロジェクト、ボイデル・シェイクスピア・ギャラリーのために、『ロメオとジュリエット』のシーンなどの原画を描いた。
1805年に王立美術院の教授に任じられた。教えた画家にはヘンリー・トムソンらがいる。
関連項目
- アメリア・オーピー - ジョン・オーピーの妻であり著述家。
参考文献
- Hendra, Viv (2007). The Cornish Wonder, A Portrait of John Opie. Truro: Truran. pp. 3, 165. ISBN 978-1-85022-216-3
- “St Agnes”. The Cornishman (105): p. 5. (1880年7月15日)
- Earland 1911, pp. 1–8.
- Rogers, 1878, pp. 10-14
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 129.
- Earland 1911, p.26