ジェームズ・ヤング

ジェームズ・ヤング: James Young1762年 - 1833年3月8日)はイギリス海軍の士官である。フランス革命戦争ナポレオン戦争に従軍し、最終的に白色中将にまで昇進した。

ジェームズ・ヤング
James Young
ヤングが指揮した艦の1隻ピク(左側) トマス・ホイットコンブ
生誕 1762年
死没 1833年3月8日
グロスタシャー、バートン・エンド・ハウス
所属組織 イギリス海軍
軍歴
最終階級 白色中将

ヤングは1762年に海軍士官の子として生まれた。父と腹違いの兄の後を追って海軍に入り、フランス革命戦争の初期、ジョン・ジャーヴィス西インド諸島で任務に就いていた時に、指揮官(海尉艦長)に昇進した。最初に指揮したのは火船であったが、同時に74門艦も指揮しており、その後勅任艦長となってフリゲート艦の指揮を任された。巡航中に私掠船の拿捕に成功して他の艦に転属となり、1799年の後半には、スペインフリゲート艦を追跡してそのうちの1隻を拿捕した。このフリゲート艦はスペインの植民地から高価な貨物を積んでおり、その拿捕に関与した艦長たちはかなりの富を手にし、乗員たちもいつもの給料に比較すると巨額の金を手にした。

その後フランス革命戦争が終わるまでは、フリゲート艦を指揮して、この艦をアミアンの和約締結時に退役させた。その後ナポレオン戦争の勃発とともにすぐ第一線に戻り、1807年までは74門艦の指揮を執って、1807年のコペンハーゲンの戦いに参戦した。ナポレオン戦争の終わりごろには将官となり、1830年にはさらに昇進して白色中将となり、その3年後に死去した。

家族と指揮官着任

ジョン・ジャーヴィス

ジェームズ・ヤングは1762年、海軍軍人の家族に生まれた。父ジェームズは海軍士官で後に中将に昇進し、母ソフィアはジェームズの2度目の妻だった[1]父と最初の妻エリザベス・ボルトンの子供である腹違いの兄、ウィリアムも海軍での任務に従事して、赤色中将にまで登り詰めた[2]。ジェームズ・ヤングも父と兄の後を追って海軍に入り、入隊後数年たった1794年に、ジョン・ジャーヴィスから指揮官をまかされた[3]。フランス革命戦争が始まって間もないころだった。その前に、ヤングは西インド諸島でジャーヴィスと任務についており、イギリスへ戻る途中のリプライザルの艦上で、火船コメットの指揮を命じられた[4]。ヤングは、1795年6月から短期間、少将に昇進したクリストファー・メイソンの後任としてゼラスの指揮を執った[3][5]。その後ヤングは地中海へ向かい、コメットの指揮を再開して、1795年10月5日に勅任艦長となった[3]

1796年、ヤングは32門艦グレーハウンドを指揮して北海を航行し、その後英仏海峡に向かって、複数の私掠船と交戦して見事に勝利を納め、12月17日午前4時にバルフルール岬沖でアバンチュールを、12月18日午前7時にビーチー・ヘッド沖でタルターヌをそれぞれ拿捕した[3][6]。アバンチュールはブリッグ船で、16台の4ポンド砲を搭載し、乗員が62人いた。指揮官はシティザン・ペルティエだった。この船はカレーを出てから2日目で、初めての航海であり、まだ捕獲した船はなかった[7]。タルターヌもブリッグ船で、16台の4ポンド砲を積んで、乗員が60人いた。こちらはディエップから出港していた。この私掠船もまだ何も捕獲していなかった。拿捕報告によると、ヤングは18門スループ艦のプローヴァーのチェシャー艦長に賛辞を送っている。プローヴァーは、ヤングの私掠船追跡を見ていて、タルターヌの退路を巧みに断ち切ったのである[8]。ヤングは1797年3月までグレーハウンドの指揮を執った後、32門艦ユニコーンの指揮官となった[9]

エタリオンとテティスの拿捕

1799年10月16日の、エタリオンとテティスの交戦 トマス・ホイットコンブ

ユニコーンの次には、1799年2月に38門艦エタリオンを指揮した。1799年10月16日午前3時、エタリオンは海上に3つの帆影を認めた[3][10]。風下へ回ったところ、それは2隻の敵のフリゲート艦と、ウィリアム・ピエールポイント艦長の指揮のもと、それを追跡している38門艦のナイアッドだった。ヤングも追跡に加わり、その翌朝、追跡側のイギリス艦に新たにヘンリー・ディグビー艦長のアルクメンも加わり、また追跡中にジョン・ゴア艦長のトリトンもやって来て、トリトンは4隻目として後方から追跡に加わった。ピエールポイントは、しんがりにヤングのエタリオンを残して、一番前にいた艦に交戦するよう信号を送り、午前7時に、スペイン艦とわかったフリゲート艦2隻を引き離した。エタリオンは後ろの方のフリゲート艦を追いかけた。双方とも船尾と艦首砲から砲撃し、接近した後に片舷射撃を行い、スペイン艦は降伏した。この艦は36門艦テティスであることがわかった。12ポンド及び6ポンド砲を何台か搭載しており、乗員が250人いた。指揮官はドン・フアン・メンドーサで、ベラクルスからスペインに戻る途中で、141万1526ドル相当の価値の貨物とココアを積んでいた。エタリオンの方は、追跡中に死傷者は出なかったが、テティスでは1人が戦死し、9人が負傷していた。一方でナイアッドは、アルクメンとトリトンと共にもう1隻の敵艦を探し出して捕獲した。この艦はサンタ・ブリガーダで、やはり高価な品物を積み込んでいた。各艦長は賞金として、4万730ポンド18シリングを得た[11][注釈 1]

拿捕により支払われた額があまりに大きかったため、ポーツマスをうろつきまわっていた各艦の乗員たちはこういわれた。「彼らは帽子に紙幣を何枚も突っ込み、時計を買ってそれを飛ばして遊び、黄金のレースを帽子に飾らないやつは尻を蹴られると言う法律を作る。そのため銀の飾りをつけたやつは、金目のものはすべて盗まれたと言って逃げることしかできない。でもそいつは商人には、金をやるから黄金のレースをつけろと強要する」[13]それぞれの艦の水夫たちが得た金額は182ポンド4シリング9ペンスで、これは彼らの10年分の給料と同額だった[14]

ピクとヴァリアントの指揮

1807年のコペンハーゲンの海戦

1800年6月、ヤングは36門艦のピクをまかされ、フランス革命戦争が終わるまで地中海で指揮を執った[3][15]1801年6月5日、ヤングはオノレ・ジョゼフ・アントワーヌ・ガントーム指揮下のフランスの大規模な護送船団が、陸軍兵を乗せてエジプトへ向かっているのに出くわした。この艦隊はしばらくピクを追いかけたが、捕獲することはできなかった。追跡を逃れたヤングは、その後フランスの動きを報告するため、ジョージ・エルフィンストーン提督の元に向かった[16]。ヤングはその後、戦争が終わってピクを退役させるためにイギリスに向かい、1802年7月2日に帰国した。ナポレオン戦争勃発後は、1807年4月になってから第一線に戻って、74門艦ヴァリアントの指揮をゆだねられた[3][17]。ヤングは、1807年のコペンハーゲンの戦いウィリアム・エシントン少将の艦隊と共に出向き、7月7日にコペンハーゲン沖についた[18]

将官への昇進と晩年

1814年、ヤングは少将に昇進し、1830年には中将となった。その後白色中将となり、1833年3月8日にグロスターシャーのバートンエンドハウスにおいて67歳で死去した。ヤングは1802年ジブラルタルに駐留していた時に、工兵隊のファイアーズ大佐(のちに中将)の娘と結婚した。この妻はbeauty of the rock(エンゼルフィッシュの一種)として知られ、2人には多くの子供が生まれた[3]

注釈

  1. 海尉は5091ポンド7シリング3ペンス、准士官は2463ポンド10シリング9ペンス、下士官は791ポンド17シリング、水夫海兵は182ポンド42シリング9ペンスである[12]

脚注

  1. “Young, James (1717–1789)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30265. http://www.oxforddnb.com/view/article/30265/?back=,30285,30265,30285,30265,30285
  2. “Young, Sir William (1751–1821)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30285. http://www.oxforddnb.com/view/article/30285/?back=,30285,30265
  3. The Gentleman's Magazine. p. 562
  4. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 369
  5. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 51
  6. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 183
  7. The Universal Politician. p. 450
  8. The Edinburgh Magazine. p. 317
  9. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 132
  10. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 136
  11. The European Magazine. p. 409
  12. Hannay. Admiral Blake. p. 133
  13. Hannay. Admiral Blake. pp. 133–4
  14. Rodger. The Command of the Ocean. p. 523
  15. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 153
  16. James. The Naval History of Great Britain. 3. p. 75
  17. Winfield. British Warships of the Age of Sail. p. 72
  18. James. The Naval History of Great Britain. p. 236

参考文献

  • The Edinburgh Magazine, or Literary Miscellany. 317. London. (1797)
  • The European Magazine, and London review. 36. London: Philological Society of London. (1799)
  • The Gentleman's Magazine. 103. London: J. B. Nicholls & Son. (1833)
  • The Universal Politician, and Periodical Reporter of the Most Interesting Occurrences Which Happen Throughout the World. London: J. Moore. (1796)
  • Crimmin, P. K.. “Young, Sir William (1751–1821)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30285. http://www.oxforddnb.com/view/article/30285/?back=,30285,30265
  • Hannay, David (2009). Admiral Blake. London: BiblioBazaar, LLC. ISBN 1-110-39964-2
  • James, William (2009). The Naval History of Great Britain, from the Declaration of War by France in 1793, to the Accession of George IV. 4. General Books LLC. ISBN 1-150-16883-8
  • Laughton, J. K.. “Young, James (1717–1789)” (subscription required for online access). Oxford Dictionary of National Biography. doi:10.1093/ref:odnb/30265. http://www.oxforddnb.com/view/article/30265/?back=,30285,30265,30285,30265,30285
  • Rodger, N. A. M. (2005). The Command of the Ocean: A Naval History of Britain 1649-1815. London: Penguin Books. ISBN 0-14-028896-1
  • Winfield, Rif (2007). British Warships of the Age of Sail 17941817: Design, Construction, Careers and Fates. Seaforth. ISBN 1-86176-246-1


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