ジェームズ・ティレル

ジェームズ・ティレルまたはジェームズ・ティレル卿(1455年頃– 1502年5月6日)[1]はイギリスの騎士であり、リチャード3世の家臣である。ウィリアム・シェイクスピアは、1593年の演劇『リチャード三世』で王子の殺害を謀略した男としてティレルを描いている[2]

ジェームズ・ティレル
James Tyrrell

出生 1455年
死去 1502年5月6日
埋葬 イギリスロンドンオースティン・フライヤーズ
父親 ウィリアム・ティレル
母親 マーガレッド・ダーシー

家族

ジェームズ・ティレルはサフォークに住むウィリアム・ティレルの長男である。また、母のマーガレット・ダーシーはジョン・ティレルの孫である[3]

生涯

ジェームズ・ティレルの父親、ウィリアム・ティレルは斬首された。オックスフォードの第13伯爵であるジョン・ド・ヴィアーは、その父親と共にエドワード4世を殺害する計画をし、それが発覚した後、それぞれ2月20日と2月26日に処刑された。ジェームズはこの事件とウィリアム・ティレルの関係を証明するためとの理由で生き残れた[4]。ジェームズは私権剥奪されなかった。

ジェームズ・ティレルは、1471年5月4日のテュークスベリーの戦いでヨーク朝側に味方し、エドワード4世によって騎士の称号を与えられた。数ヶ月後、彼は将来のリチャード3世グロスター公に仕えはじめた[1][5]。彼は1485年からフランスに滞在していたため、ボズワースの戦いに参加しなかった。ホグワースの戦いにより、仕えていたヨーク朝が滅亡しチューダー朝が王家となった。

1550年頃のロンドンのオースティンフライヤーズ。ジェームズ・ティレルの埋葬地。

翌年、ジェームズはイギリスに戻り、チューダー朝のヘンリー7世から恩赦を受けた。そして、ヘンリー7世は、ジェームズをイギリス領のカレーの総督に任命した。しかし、1501年にジェームズは、亡命していたヨーク朝の家臣であるサフォークの第3代公爵であるエドムンド・ポールに支援をした。 そのことによって、1501年の春にヘンリー7世はジェームズとその息子であるトーマスを含む多くの人々を逮捕した[1]

死刑執行から数年後、トマス・モアは『リチャード3世の歴史』の中で、ジェームズはエドワード5世と、ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーらを殺害したことを逮捕時の調査で自白したと書いている[6]。しかし、他の記述、特にポリドール・ヴァージルの記述には、ジェームズの自白について言及していない。

ティレルは1502年5月2日にロンドンのギルドホールで、反逆罪で裁判にかけられ有罪判決を受け、4日後の5月6日に[1]サフォーク公を支援した共犯者の一人であるジョン・ウィンダムと共に処刑された。ティレルはロンドンのオースティン兄弟教会に埋葬された。彼は1504年1月25日に私権剥奪された[1]

妻子

最初の妻であるエリザベス・モーリーと結婚し 、その後、1469年、ジェームズはランハーンのジョン・アランデルの娘であるアン・アランデル結婚をした。下記の合わせて3人の息子と1人の娘をもうけた[7]

  • トーマス・ティレル( ?~1551)
  • ジェームズ・ティレル(?~1539)[8]
  • ウィリアム・ティレル[9]
  • アン・ティレル[10]

出典

  1. Horrox 2004.
  2. Shakespeare and History: James Tyrrell
  3. Horrox 2008.
  4. Ross 2011, pp. 39, 42.
  5. Hughes, A. (1898). List of Sheriffs for England and Wales from the Earliest Times to A.D. 1831. London: Eyre & Spottiswoode. p. 22. https://books.google.com/books?id=AF4sAAAAYAAJ&pg=RA1-PR1
  6. More, Thomas(英語)『The History of King Richard the Third』不明、n.d.http://www.r3.org/on-line-library-text-essays/marius-richard-the-history-of-king-richard-iii/thomas-more-index/the-history-of-king-richard-the-third-sir-thomas-more/2018年5月4日閲覧。"...syr Iames Tirell was in the Tower, for Treason committed agaynste the moste famous prince king Henry the seuenth, bothe Dighton an he were examined, & confessed the murther in maner aboue writen, but whither the bodies were remoued thei could nothing tel."。
  7. Metcalfe 1882, p. 74.
  8. Bright 1858, p. 228.
  9. Richardson III 2011, p. 184.
  10. Richardson III 2011, pp. 184–5.

参考文献

  • Bright, J.B. (1858). The Brights of Suffolk, England. Boston: John Wilson and Son. p. 228. https://archive.org/details/brightssuffolk00briggoog 2013年7月16日閲覧。
  • Burke, John (1835). A Genealogical and Heraldic History of the Commoners of Great Britain and Ireland. I. London: Henry Colburn. p. 25. https://books.google.com/books?id=uo9AAAAAcAAJ&pg=PA25 2013年7月16日閲覧。
  • Metcalfe, Walter C., ed (1882). The Visitations of Suffolk. Exeter: William Pollard. p. 74. https://archive.org/stream/visitationsofsuf00harvuoft#page/74/mode/2up 2013年8月1日閲覧。
  • Richardson, Douglas (2011). Everingham, Kimball G.. ed. Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. III (2nd ed.). Salt Lake City. pp. 183–4. ISBN 978-1449966393
  • Richardson, Douglas (2011). Everingham, Kimball G.. ed. Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. IV (2nd ed.). Salt Lake City. ISBN 978-1460992708
  • Ross, James (2011). John de Vere, Thirteenth Earl of Oxford (1442–1513); 'The Foremost Man of the Kingdom'. Woodbridge, Suffolk: The Boydell Press. ISBN 978-1-84383-614-8

参考文献

外部リンク

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