ジェファーソン・エアプレイン

ジェファーソン・エアプレインJefferson Airplane)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド。60年代のアメリカンにおけるロック黄金時代から活動するバンドの一つで、サイケデリック文化を象徴する代表的グループ。一度解散後、ジェファーソン・スターシップJefferson Starship)に改名して音楽活動を継続し、更にスターシップStarshipへと分離した。1996年ロックの殿堂」入り。

ジェファーソン・エアプレイン
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
ジャンル
活動期間
レーベル
公式サイト Jefferson Airplane.com
旧メンバー 別記参照
ジェファーソン・スターシップ
2014年
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
ジャンル
活動期間
レーベル
公式サイト Jefferson Starship.net
メンバー
  • デヴィット・フレイバーグ
  • キャシー・リチャードソン
  • ジュード・ゴールド
  • クリス・スミス
  • ドニー・ボールドウィン
旧メンバー 別記参照

1990年代以降は、ポール・カントナーが再興したジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship - The Next Generation)と、ミッキー・トーマスが主宰するスターシップ(Starship featuring Mickey Thomas)の2つの流れが共存している。

概要

ジェファーソン・エアプレイン自体は1965年から1970年代前半まで活動したバンドだが、「ジェファーソン」と名乗るバンドの鍵を握るのは、創設メンバーであるマーティ・バリン(バーリン、ベイリン)、ポール・カントナーだった。エアプレインにとどまらず、ジェファーソン・スターシップ以降も記述する。

  1. 「ジェファーソン・エアプレイン」は、アメリカン・ロック・シーンの黎明期、フォーク・リバイバル運動をへて、フォーク・ロックに、サイケデリック・ロックの代表格と捉えられ、1960年代後期のカウンター・カルチャーを象徴するバンドのひとつになった[7]
  2. 「ジェファーソン・スターシップ」は、ポール・カントナーとグレイス・スリック、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシア、ビル・クルーツマン、ミッキー・ハートに、グラハム・ナッシュデヴィッド・クロスビー達のセッション・プロジェクトとして1970年に始めたプラネット・アース・ロック・アンド・ロール・オーケストラが元で、クロスビーのソロ・デビュー・アルバム「イフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム」などが作られている。1974年にパーマネント・バンドとして正式にデビューして、ロック・ビジネスが成長して行く時流に乗る事にも成功し、1970年代後半の有名アメリカン・バンドのひとつになった。
  3. リード・シンガーをミッキー・トーマスに替えたバンドは、70年代末はハード・ロック路線だった。バンドは1980年代に入ると次第に活動は低迷する。
  4. 1980年代に入ると「第二のジャーニー」を探すレコード会社の要求によって産業ロック・サウンドを模索。1985年にグレイス・スリックとミッキー・トーマスを看板に産業ロックと、アダルト・コンテンポラリーのポップ路線を歩む「スターシップ」になってしまった。
  5. この時期、脱退した創設メンバーのポール・カントナーは自己のスタイルで再始動し、「KBC」「ジェファーソン・エアプレイン・リユニオン」「ソロ活動」を経て「新編成ジェファーソン・スターシップ」として現在に至る。
  6. スターシップ」の最後まで在籍したミッキー・トーマスが、1990年代初頭に自己のバンドを「スターシップ」名義で再編成し、現在までポール・カントナーの「ジェファーソン・スターシップ」と同時に存在している。

マーティ・バリン/ポール・カントナーの創始メンバーによる『ジェファーソン・エアプレイン』~『ジェファーソン・スターシップ』~『現在のジェファーソン・スターシップ』、『グレイス・スリック在籍の時期のスターシップ』~『スリック脱退後のスターシップ』、及び『ミッキー・トーマス率いる現在のスターシップ』は、それぞれ異なるファン層を持ち、「まったく別なバンド」と見るのが妥当である。

略歴

ジェファーソン・エアプレイン時代(1965年 - 1973年)

シグニー・トリー・アンダーソン在籍時代 (1966年)

1960年代に吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン[注 1]、その刺激を受けて続々と誕生した新世代のUSバンドを代表するグループだった。反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、「60年代カウンターカルチャー」の申し子とも見られた。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代に、バンドは最初のピークを迎えた[注 2]。そのイメージから、日本では「サイケデリック・ロック」の代表格として語られる事も多いのだが、実際にはそのサイケ時代は短く、より幅広い音楽的要素を持っているバンドである。

バンド創設者、マーティ・バリン1962年ポップス/R&Rシンガーとしてシングル・デビューし、その後サンフランシスコに移りダンサーで活躍したり、フォーク・グループに参加していたが、バンド・スタイルで自分のグループ結成を目論む。一方、根っからのフォーキーであるポール・カントナーはフォーク・シンガーとしてサンフランシスコのコーヒーハウスなどで活動していた。この2人が出会い中心に、1965年にジェファーソン・エアプレインの母体が出来上がりライブ・デビュー。RCAとの契約はサンフランシスコ・エリアのロックバンドで初メジャー契約のバンドとして一躍注目を集めた。当初はバリンのボーカルを中心に、1966年のデビュー・アルバム「テイクス・オフ(Takes Off)」[8] では、サンフランシスコ・ローカルのトップ・グループ、ボーブラメルズ(Beau Brummels・英語版)の流れを汲む軽快な楽曲、フォーク・シーンでは堅実なブルース・ギターを得意にとしていたカウコネンらの演奏に、プロデュースと録音エンジニアを務めたデヴィッド・ハッシンジャー(:David Hassinger・英語版)のアレンジでフォーク/R&R/R&B/ブルースが混ざり合ったフォークロックだった。東海岸ニューヨークラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクトなど派生したグループと西海岸サンフランシスコでは音楽傾向が異なった。フォークロック先駆にあたるバーズは1966年にアルバム「霧の5次元(Fifth Dimension)」を発表、この新奇な(ロックミュージックの)実験音楽が流行し電気増幅された楽器と音響装置の改良進化を反映したものだった。演劇と実験音楽やオペラなどの体験から独自に特徴ある男女3人によるボーカルハーモニーで一般的認知のギター/ベース・サウンドが絡むスタイルはほぼ確立されていった。

グレイス・スリック加入期 (1967年)

1967年の『Surrealistic Pillow』制作前にはグレイス・スリックが加入してバンドに一大飛躍をもたらす[注 3]。そのカリスマ性を体現するかのような強力な歌声で、アルバムから「ホワイト・ラビット[注 4] の中ヒット、「サムバディ・トゥ・ラブ:Somebody To Love」[9] の大ヒットが生まれた。また各メンバーも強烈に主張し始め、バリン作のメランコリックな曲、すでにホット・ツナを予感させるヨーマ・カウコネンの曲、3人のボーカルが絡み合う曲など、その後長らくバンドを彩る多様なスタイルがすでに現れていた。そして、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりエアプレインの名前は全米に広まった。この頃よりライブ照明にリキッドライトを導入している。

当初はバリンがリーダーだったが、3rdアルバムを制作する頃からは、独創性を発揮し始めたカントナーのリーダーシップや他メンバーの主張も台頭し、バンド内の力関係も変化し始める。傍目には危ういとさえ感じられるこの個性のぶつかり合いこそが、バンドを時代の頂点に押し上げる原動力になった。ちなみに、バリンはポップ・ソングやR&R/R&B、カントナーはフォーク・ミュージック、ギターのカウコネンはトラディショナルなブルースの追求者、ベースジャック・キャサディはR&B、ブルーズ、R&R、ジャズと幅広く好み、ドラムススペンサー・ドライデンはジャズ出身という多様性を持っていた。

当時の大掛かりなフェスティバルにも、くまなく参加し1967~1969年にかけて人気はピークに達した。ひたすら新しい音楽表現を追求したサイケデリアの時代が過ぎ、1969年ウッドストック[注 5] に出演する頃にはベトナム戦争が泥沼化、バンドは「反体制メッセージ」の代弁者としての存在感が増して行く。その中心は、政治的メッセージを発するカントナーと、カリスマ性が頂点に達したスリックに移っていた。また、演奏スタイルも1970年代に入る頃にはストレートで、ややハードなものに変化していった。

一方、余りにも過酷になった活動の中で、よりパーソナルな音楽活動を望むカウコネンとキャサディは1969年ごろからブルーズ・デュオ:ホット・ツナ・Hot Tunaの原型をスタート。西海岸のミュージシャンとPlanet Earth Rock and Roll Orchestraと呼ぶセッションを活発に行なっていたカントナーは、1970年に自己のプロジェクトユニット、Paul Kantner Jefferson Starship名義でのアルバムを発表した(ここでスターシップという次のコンセプトが生まれた。理屈の通らない権力者などは相手にせず理想を追求する人達で宇宙に脱出しようというストーリーは、1969年発表の曲「Wooden Ships」が原点。)。さらに、1969年12月6日オルタモント・フリーコンサートの出演では、観客の喧嘩に直接仲裁へステージから飛び降りたバリンに暴徒の一人が殴りかかり、その場で卒倒失神する傷害事件発生やジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンの死を契機に、バリンは音楽活動自体を見直したいと考えるようになり、自分が作ったバンドから1971年に脱退。

RCAとの契約期間が終了したバンドは、このような状況においても1971年に自分達のインディペンデント・レーベル「GRUNT(グラント)」を設立し、同年、エアプレインとしてミリオンセラーのスタジオ作『Bark(バーク)』を制作。他のアーティストとも契約して作品をリリースするなど、チャレンジは続けた。しかしこの時期、L.A.勢力の台頭など音楽シーンの新旧交代も影響してエアプレインとしての活動は停滞。カントナーはスリックのソロを含むプロジェクト作品を1973年までに更に3枚制作してスターシップのコンセプトを発展、ホット・ツナもアルバム制作を続けるなど、各々のソロ活動が本格的になり、外に向かって行った。

1972年に最後のツアーが行なわれた後、翌1973年にはそのライブ盤がリリースされた。しかし、Hot Tuna組の2人は完全にバンドを離れてしまい、ジェファーソン・エアプレインは正式に解散した。

ジェファーソン・スターシップ時代(1974年 - 1984年)

USA・サンフランシスコ公演 (1976年7月)

エアプレイン解散の翌1974年、カントナー・プロジェクト(1970-1973)のメンバーをベースにグレイス・スリックの1stソロをプロモートするツアーを行なう事になり、バンド名をパーマネントバンドとしてのジェファーソン・スターシップに決定。メンバーは、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタのエアプレイン最終組に、ギタリストのクレイグ・チャキーソ、ベーシスト/ギタリストにピーター・カウコネン(ヨーマの実弟)を加えたもの。この公演の後、ピーター・カウコネンがピート・シアーズに交代して1stアルバム『Dragon Fly』 が制作された。

このように、ある時期を境にエアプレインからスターシップに単に改名されたのではなく、「エアプレイン」と「カントナーのスターシップ」が平行して活動し、エアプレインが解散した後でスターシップが改めてデビューしたのが経緯だった。1stアルバムとライブにはマーティ・バリンが早くもゲスト参加し、その曲「Caroline」はFMステーションでヘビーローテーションになる。2ndアルバム『Red Octopus』(エアプレイン以来初の全米最高1位獲得)からはバリンがフルタイムで復帰し、彼の作品「ミラクルズ:Miracles」[10](シングルチャート最高3位)が大ヒット。同年の「ランナウェイ」も好評だった。さらに78年には、「カウント・オン・ミー」もヒットした。復活したバリン/スリック/カントナーのコーラスワークを新しいバンド・アンサンブルに載せて、一気に人気グループの座を奪還した。エアプレインとは大幅に異なる音楽を取り入れて1970年代ロックシーンのメインストリームに登場した形だが、この時はメンバー自身が主導して掴んだ成功であり、1980年代に起きた変化(後述)とは異なっていたと言える。1970年代のロックシーンで通用する音楽作りという面では、作曲・編曲で大活躍を見せたピート・シアーズの手腕が大きく貢献した。また、カウコネンとは全く違ったコンテンポラリーなスタイルを持つクレイグ・チャキーソも演奏・作曲で活躍した。

4年余り続いたこのジェファーソン・スターシップの全盛期には、音楽的にバリンの存在感が大きくなり、エアプレイン結成以来ようやく彼の理想的なバンドが実現した時代でもあった。そして彼だけでなく、グレイス・スリックの歌唱力を生かした曲や、エアプレイン以来のボーカル・ワークを生かした曲も数多く生まれ、4枚のアルバムが成功を収める。バンドとしての調和もとれた時期だった。しかし、長らくバンドのシンボルであり続けたスリックが、精神的不安定から深刻なドラッグ中毒のトラブルを抱え一時脱退を余儀なくされる(1978年-1981年)。リードシンガーはマーティ・バリン一人という体制でツアーも続け、1978年にはこの編成での最終シングル「Light The Sky on Fire」を発表。これは、アメリカのTV版『Star Wars Holiday Special』のテーマ曲になり、バンドも演奏シーンで出演した。この後、ドラマーのジョン・バーベイタが自動車事故で活動できなくなり、エインズレー・ダンバーが参加する。

バンドは、ラブ・バラード等を極力減らしてより強力な音楽でイメージチェンジを図ることを決め、新作のためのリハーサル/レコーディングに入る。しかし、再びバリンがバンドを離れる事態になり、後任として南部出身のミッキー・トーマスを起用[注 6]。完成された1979年の『Freedom At Point Zero』は、トーマスの声質を生かしたハードロック路線だった。TOTO風ハード・ロックのシングル盤「ジェーン」はまずまずの成功を収めたが、60年代以来のファンからは産業ロック志向であるとの否定的な評価を受けた。その延長線上で創られた1981年の『Modern Times』にはグレイス・スリックがゲストとして参加、さらに1982年の『Winds Of Change』では正式復帰した。バンドは万全の体制に回復したかに見えたのだが、1980年代初頭から方向性の模索を続けなければならない状況に陥っていた。レコード会社は、当時のメインストリームになったジャーニー/ボストン/ヴァン・ヘイレン/カンサス/スティクス/ナイト・レンジャー/TOTO、REOスピードワゴン、フォリナーといった産業ロック/スタジアム・ロック・スタイルのヒット曲を要求。そして、さらに急速に変化する音楽シーンはMTV全盛期に突入し、音楽ビジネスの先端は、ビジュアル戦略にも重きを置いたマドンナマイケル・ジャクソンなどのポップ・ソングに移って行った。

会社は1960年代以来のベテラン・アーティストに厳しい対処をするようになり、ジェファーソンらしい音楽は急激に失なわれ、メンバー間の対立も深刻になった。それは一般的に伝えられたような、カントナーひとりが浮いてしまったという単純なものではなかった。より若いターゲットに向けてコンテンポラリーなMTV路線を志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対して、シンセサイザー/コンピューターを多用しながらも従来通りのコアなロック・ファンにアピールしたいと考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ、最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図だったと伝えられる。

この間、マーティー・バリンは81年に「ハーツ(ハート悲しく)」のヒットを放った[注 7]。この勢いで82年1月にソロバンドで来日を果たしている。カントナーは13年ぶりにソロ・プロジェクトでの制作を復活、「Planet Earth Rock And Roll Orchestra」名義でのソロ・アルバム『Planet Earth Rock And Roll Orchestra』を発表、こちらの方が、本来のジェファーソンサウンドが展開されている作品だった。続くジェファーソン・スターシップの『Nuclear Furniture』では、当時最新のエレクトロ・ポップを大幅に導入。ここで本来のコンセプト・メーカーであったカントナーが突出してバンドと対立するようになる。

分裂期(1985年 - 1990年)

この時期はレコードセールスの要因もあって、特に日本では「スターシップ」についての情報しか入らず、長いジェファーソンの歴史で単に最後のバンドがスターシップだった、という認識が強い。しかし、1985年以降の数年間は、スリックやトーマスを看板とするスターシップと、カントナーを中心としたKBC/再結成エアプレインに分裂していた。

スターシップ

やがて、レコード会社やプロデューサーが求めるような、MTV時代に生き残るためのスタイルを受け入れようと考えたスリック/トーマスがバンドの方向性を握るようになる。バンドの変容は進み、あるライブでは女性バック・コーラスを配置する案まで出て、これにカントナーは激怒。また、当時勢いに乗っていたロックバンド「ジャーニー」の前座を務めるという提案もあったが、かつて一緒にツアーをした時に比べ「極度に安い報酬を提案された」ために拒否、という話も残っている。このような経緯から、もはや主導権が取れなくなったカントナーは、もう1枚アルバムを制作した後に解散するという意思を表明するが、他メンバーは存続を要求。1984年、結局カントナーが単独で脱退し、残ったメンバー達にバンド名「ジェファーソン・スターシップ」を使わないように訴訟を起こす。(公判中、一時スターシップ・ジェファーソンと名乗って公演を続けたといい、事態の混乱を物語っている)1985年の判決の結果、両者とも使えないことになり、折衷案として「ジェファーソン」をはずして「スターシップ」となり、新たにRCAと4枚のアルバム制作の契約を結んで再出発した。

バンドは当時先端のサウンドを全面的に取り入れ、マーティン・ペイジによるシングル「シスコはロックシティ(We Built This City)」(これは邦題だけで実際は特定の街を歌ったものではない。)は、エアプレイン時代から通算してもシングル初となる全米1位(1985年11月16日付 - 23日付)を獲得。エアプレイン以来果たせなかった日本公演も実現している。

外部ライターの楽曲を中心に、完全にマーケティング主導型の制作をする「コーポレート・ロック体制」に変更。ファン層は入れ替わった。「Sara」(1986年3月15日付)、「Nothing's Gonna Stop Us Now(愛はとまらない)」(1987年4月4日付-11日付)の2曲はNo.1ヒットになったが、熱心なロック・ファンからは見放されてしまった。1988年に年齢と音楽性の不一致を理由に、ジェファーソン・エアプレイン時代から在籍した最後のメンバーである、グレイス・スリックがライブ活動からの引退を表明、そのまま脱退してしまう。中心メンバーがミッキー・トーマスとクレイグ・チャキーソだけになったバンドは、メンバーを補充しながら活動を継続し、もう1枚のアルバム『Love Among The Cannibals』(最高64位)は低迷し、シングル「It's Not Enough」(最高12位)、「I Didn't Mean to Stay All Night」(最高75位)と思うようなヒットは出せなかった。そして、1990年に解散を決めた。トーマス以外は全てスタジオミュージシャンを起用する事を要求する程に、レコード会社のコントロールは熾烈になり、大企業により『バンドの音楽性もミュージシャンのパーソナリティも破壊されてしまった』と、1974年のジェファーソン・スターシップデビューから在籍し続けた最後の一人であったチャキーソが後に語っている。

KBC バンド

一方、カントナーは本来自分が目指してきた音楽をやる為に動き始めた。ソロ活動をしていたマーティ・バリンのライブで1984年中には早くも共演し、SVT(Hot Tuna解散後ジャック・キャサディが結成)が解散していたジャック・キャサディも加わって1985年にKBC(カントナー・バリン・キャサディ)BANDを結成。1986年にアリスタからアルバム『KBC BAND』(全米最高75位)を発表した。シングル「It's Not You, It's Not Me」が辛うじて最高89位などレコードセールス的には振るわなかったが、アルバム中数曲で8年ぶりにカントナー/バリンの共作も復活してジェファーソンの正統な流れを汲む演奏を聴かせ、事実上のファミリー再結集としてライブで人気を博した。当時、アメリカの抱える諸問題をストレートに取り上げたブルース・スプリングスティーンの「Born In The USA」やジャクソン・ブラウンの「For America」などがヒットしていた。KBC BANDでは1969年当時のエアプレインを思わせるような、カントナー/バリン共作のシングル「America(Arista AS1 9572)」を発表(12inchシングルやプロモーションビデオも作られたがチャートインはならず)。これは、「ベトナム戦争後の問題や権力への批判」を織り込みながらも未来を肯定するという内容で、商業成績という重石が取れ、晴れて軽やかに世の中に目を向けて歌えるようになった久々のカントナーらしいメッセージの曲だった。

1987年、カントナーはアルバムに収録されていた曲「Mariel」がきっかけで、シンガーソングライターのクリス・クリストファーソンと共にニカラグアに長期滞在し、帰国後、ペーパーバック『Paul Kantner's Nicaragua Diary』を出版した。バンドは活発なライブ活動を続け、2ndアルバムにとりかかったがレコード会社のサポートは得られず解散した。短期間の活動に終わったが、この時のメンバーが、現ジェファーソン・スターシップ(JEFFERSON STARSHIP -The Next Generation)再結成の基盤にもなった。

再結成ジェファーソン・エアプレイン

カントナーはKBC解散後、ヨーマ・カウコネン、ジャックキャサディと共に「Hot Tuna with Paul Kantner」としてツアーを行い、これが次の再編劇の幕開けとなる。1988年、ここに引退したはずのグレイス・スリックも加わり、エアプレインの4人が16年ぶりに顔を合わせた。そして1989年にはマーティ・バリンも参加を承諾し、かつてのドラマーだったスペンサー・ドライデンを除く全盛期の5人でジェファーソン・エアプレイン再結成が実現した。これは、スリックを含むメンバーでバンドにもうひと華咲かせようと望んだカントナーが奔走して実現したリユニオンであり、決してレコード会社主導のイベントではなかった。アルバム『Jefferson Airplane』は最高85位、シングル「Planes」「Summer Of Love」はチャートインを果たせなかったが、全米ツアーは成功を収める。東海岸でも数度のアリーナ公演をソールドアウト、地元ゴールデンゲイト・パークでは65,000人を動員するが、その直後にまた活動停止した。ホット・ツナ再始動に向けて動き始めたヨーマ・カウコネンとジャック・キャサディの再びの脱退が直接の原因になったとされる。ちなみに、カントナーの初来日となるはずだった「日本公演は中止」になっている。

このように1985年から1989年にかけては、かつての仲間同士が裁判沙汰になったり、再び手を組んだりという離合集散の動きが激しく、これに対して産業ロックのスターシップに残ったメンバーは激怒したといわれる。1989年のスターシップのアルバム『Love Among The Cannibals』は彼等を皮肉ったタイトルであるとトーマスはインタビューで語っていた。1989年、「スターシップ」「再結成ジェファーソン・エアプレイン」2グループが併存する形になった。

新生ジェファーソン・スターシップ期(1992年 - 現在)

19901991年にかけては、カントナーはKBC BANDのキーボーディスト、ティム・ゴーマンと、ギタリスト、スリック・アギラーらとソロ・アコースティックユニットPaul Kantner's Woodenshipを組み全米でライブ活動を行なった。この当時のライブは日本向けに収録され、NHK-BSで放映されたことがある。

また、Paul Kantner&Female Singers Projectを立ち上げてデモ音源まで制作したが正式には発表されないままになっている。但しここには、Jefferson Starship-The Next Generationに参加する女性シンガー、ダービー・グールドも参加し、この時の楽曲は後のスタジオ作でも取り上げられている。

USA・サンタクルーズ公演 (1996年8月)

1992年、Paul Kantner's Woodenshipの3人に、ベースのジャック・キャサディ、フィドルのパパ・ジョン・クリーチ、新女性シンガーに地元シスコで活動していたダービー・グールドを加え、ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship-The Next Generation)が結成された。翌1993年にはバリンも再合流し、1994年にはようやくの初来日(福岡・大阪・東京)を果たしている。権利関係の問題でエアプレインを名乗る事はできないが、ライブでは1965年デビュー以来の各ソロ作品も含めた膨大な楽曲を網羅し、1992-2007年までに21か国で計900回近くが行なわれている。またフル編成のJefferson Starship-The Next Generation、マーティとドラムスが外れたカントナーのソロステージに近いJefferson Starship-Acoustic Explorerの2種類があり、セットリストが大幅に異なる。

1995年、新曲を含むライブCD(グレイス・スリックもゲスト参加)を発表。一部収録曲・ミックスの異なるスタジオ作品(グレイス・スリックもゲスト参加)を1998年(ドイツ盤)、1999年(アメリカ・日本盤)に発表。1999年には2度目の東京公演も行なった。

2000年以降には、ライブCDやDVDをマイナーレーベルや公式サイトから数多く作品をリリース。2005年から、親交のあるロックバンド「ファミリー」のデビュー40周年記念ツアーに同行。

2007年の時点では、マーティ・バリン、ポール・カントナー、ディヴィッド・フライバーグ(2005年正式復帰)、ダイアナ・マンガーノ、スリック・アギラー、プレイリー・プリンス、クリス・スミス。ツアーによって、ダービー・グールド、トム・コンスタンテン、リンダ・インペリアル(クイックシルバー・ファミリーで、フライバークの夫人)、ピート・シアーズ、ピーター・カウコネン、ボビー・ヴェガ(ベーシスト)などがゲスト参加している。

USA・ジャクソンビル公演 (2011年5月)

2008年、ダイアナ・マンガーノに代わり、歴代5人目になる女性ボーカル、キャシー・リチャードソンが新加入。同年9月、10年ぶりのアルバム『Jefferson Tree Of Liberty』をリリース。

2012年、再始動から長年在籍しているギタリスト スリック・アギラーが病により降板。代役にジュード・ゴールドが加入。2016年1月28日の同日、創設メンバーのポール・カントナーと[11]、初代女性ボーカルのシグニー・トリー・アンダーソンが死去[12]

2018年、創設メンバーのマーティ・バリンが惜しくも死去した[13]

メンバー

現ラインナップ

  • ディヴィッド・フライバーグ (David Freiberg) - ベース、キーボード、ボーカル (1972年-1985年、2005年-)
    クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのオリジナルメンバーで、バリン脱退の穴を埋める為にシンガーとしてエアプレインに参加。デビュー前には、カントナー、デビッド・クロスビーと共同生活をしていたという、西海岸人脈における隠れたレジェンドのひとり。ジェファーソン・スターシップではピート・シアーズと、ベースとキーボードのパートを分け合って担当。シンガーとしても個性的な魅力があるといわれる。脱退後、1986年頃からはゲイリー・ダンカン(Gary Duncan)が再編成したクイックシルヴァー(Gary Duncan Quicksilver)のアルバム/ライブに参加。2005年からジェファーソン・スターシップにシンガーとして正式復帰している。
  • ドニー・ボールドウィン (Donny Baldwin) - ドラム (1982年-1990年、2007年-)
    通算で6代目のドラマー。エルヴィン・ビショップ・バンドではミッキー・トーマスの僚友で、スターシップに体制変更した後も引き続き参加したが、1990年に関係が悪化したミッキーとのトラブルからバンドを脱退(事実上の解雇)。2005年には、久しぶりにジェファーソン・スターシップTNGにゲストとして登場。2006年現在、再結成したベイエリアの名ファンクバンド、リディア・ペンス&コールド・ブラッドでアルバム/ツアーに参加。また、2007年以降プレイリー・プリンスが、ニュー・カーズ(後述)のツアーによりジェファーソン・スターシップTNGを一時離脱した際には、代役を経て正式メンバーに復帰した。
  • クリス・スミス (Chris Smith) - キーボード (1998年-)
    ジェファーソン・スターシップTNGから参加。ダイアナ・ロス・バンド等、R&B系のアーティストのサポートをしていたミュージシャン。
  • キャシー・リチャードソン (Cathy Richardson) - ボーカル (2008年-)
    2008年3月より加入し、1999年以来久しぶりに開始された新作スタジオ盤のレコーディングに参加して以降のツアーに参加し、主力の女性シンガーとして活動する。
  • ジュード・ゴールド (Jude Gold) - リード・ギター (2012年-)

歴代メンバー(正式に在籍した経歴があるもの総て)

※スターシップに在籍したメンバーは、スターシップ (バンド)を参照。

  • ポール・カントナー (Paul Kantner) - ボーカル、ギター (1965年-1984年、1989年、1992年-2016年) ※2016年死去
    エアプレイン中期から実質的にバンドのオーガナイザーとなり、1984年から脱退していた時期を除いて現在までの中心人物。自身は独特のスタイルを持つが、新しいサウンドを導入することについては、意外な程許容範囲の広いプロデュース感覚を持つミュージシャンでもある。エアプレインから大幅に変化してさらに商業的成功を収めた、1970年代のジェファーソン・スターシップも、各メンバーの能力を的確に活かすことができた彼の手腕によるところが大きい。しかし、自身のスタイル自体を変えることを要求された1980年代の変化は受け入れることができず、バンド脱退に至った。
    ルーツはフレッド・ニールなどに憧れた根っからのフォーキーであり、1960年代から1970年代のロック・レジェンド、詩人、作家、ユニークな12弦ギター奏者。サイエンスフィクションを愛し、ここからスターシップのコンセプトも生み出された。クロスビー、スティルス&ナッシュグレイトフル・デッドをはじめとするカリフォルニア州のアーティストに広い人脈を持ち、彼らとの交流から数々の作品を生み出した。2016年に死去。
  • マーティ・バリン (Marty Balin) - ボーカル、アコースティックギター(1965年-1971年、1975年-1979年、1993年-2008年) ※2018年死去
    ソロでレコード・デビュー、フォーク・グループ「タウン・クライアーズ」での活動等を経て、1964年、クラブ「マトリックス」を開設、ポール・カントナーとの出会いからエアプレインを結成。独特なハイトーンボイスを持つシンガー。R&Bも好み、初期のエアプレインでウィルソン・ピケットの「In The Midnight Hour」、1970年頃にはシル・ジョンスンの「You Wear Your Dresses Too Short」をカバーしている。1971年に一時脱退し、サンフランシスコ・バンドの「グルートナ (Grootna)」をプロデュースし、自身のバンドである「ボデイシャスDF (Bodacious DF)」でアルバムを発表した後、ジェファーソン・スターシップに復帰。ソロ転向後は1981年に「ハート悲しく」(日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1981年10月19日付から7週連続1位を獲得[14])などのヒットを放った。ジェファーソン・スターシップにヒット曲を提供した友人、ジェシ・バリッシュのアルバム2枚でプロデューサーも務めている。ソロ・キャリアでの成功もおさめたが、セッション・ミュージシャンを従えた完全なソロ・シンガーとしての道は行かず、常に気心知れたバンドで歌うことを選んだ。結局、1993年よりジェファーソン・スターシップに再合流し、ソロ活動も並行して継続。画家としても制作活動をしている。ベイリン、ないしベーリンと表記されることが多かったが、実際の発音はバランとバリンの間であり、本稿ではバリンで統一した。2018年に死去。
  • ヨーマ・カウコネン (Jorma Kaukonen) - ギター、ボーカル (1966年-1972年、1989年)
    同じクラブに出入りしていたカントナーに誘われてエアプレインに参加。厳密には、彼とバリン、カントナーの3人がオリジナル・メンバー。1969年にジャック・キャサディとともにホット・ツナを結成。1990年に再結成して現在も活動を続ける。平行してソロ活動も精力的に行なう。また、ギター・キャンプを運営してギターを教える活動も行なっている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第54位、2011年の改訂版では削除された。
  • ボブ・ハーヴェイ(Bob Harvey) - ベース (1965年)
    ごく初期に在籍したベーシスト。アップライトベースを使いオーソドックスなブルーグラスやフォーク・スタイルのバッキング演奏をした。レコーディング以前にジャック・キャサディに交代した。
  • ジェリー・ペロクィン (Jerry Peloquin) - ドラム (1965年)
    ごく初期に在籍したドラマー。軍隊のバンドでドラムを担当した経歴を持ち、自身はジャズのバックグラウンドを持つと伝えられる。レコーディング以前にスキップ・スペンスに交代した。
  • シグニー・トリー・アンダーソン (Signe Toly Anderson) - ボーカル (1965年-1966年) ※2016年死去
    結成時の女性ボーカリストでフォーク/ジャズにバックグランドを持つスタイル。歌唱力も優れていたが、ファースト・アルバムを発表した直後、子育てに専念するために引退・脱退。 ジェファーソン・スターシップTNGでは何度かステージに登場している。2016年に死去。
  • ジャック・キャサディ (Jack Casady) - ベース (1966年-1972年、1989年、1992年-2000年)
    エアプレイン以前はリード・ギタリストだったが、カウコネンに請われてベーシストとして参加。エアプレイン解散後も、カントナーとの交流は続いてKBC BANDやジェファーソン・スターシップTNGにも参加した。2000年以降は、サザン・グループのガヴァメント・ミュールにゲスト参加していたが、現在はホット・ツナをメインに活動を続けている。
  • アレックス・スキップ・スペンス (Alex Skip Spence) (en)- ドラム (1965年-1966年) ※1999年死去
    カナダ出身。本名アレクサンダー・スペンスと表記される場合もある(アレックスはアレクサンダーの愛称)。先祖にはネイティブ・アメリカンの血脈があり、カリフォルニア州には父親がある航空機製造メーカーに就いたことから少年期に家族で移住している。ニックネーム「スキップ」は、類い希な音楽の才能と破天荒な人柄(破綻者)に由来する。本来はギタリストで、エアプレイン加入前は西海岸のフォーク・クラブ、コーヒーハウスを渡り歩きその中、ごく初期のクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスで活動していたことがあるとも言われている(クイックシルヴァーの歴史においては、ほとんど重要視されていない)。ハイスクールのブラスバンドやアマチュアR&Rバンドでドラムスを叩いていた経験がある程度だったが、バリンに「君は僕のバンドのドラマーだ」と言われてドラムを担当することになった。この時、本人はギタリストだとしか自己紹介せず、バリンも彼の経歴は全く知らずに誘ったという。ジェファーソン・エアプレイン脱退後、モビー・グレープに参加、のち一人多重録音(ドラムスも担当)した1971年ソロ・アルバム『Oar(en)』を発表する。1999年に死去。
  • グレイス・スリック (Grace Slick) - ボーカル、ピアノ (1966年-1979年、1981年-1988年、1989年)
    マトリックスに出演していたバンド、グレート・ソサエティから引き抜かれてライブ・デビュー。アルバムは『シュールリアリスティック・ピロー』(1967年)から参加。以降、バンドを象徴する重要人物になり、女性ロックスターの草分け的存在。また、常にエキセントリックな言動が注目を浴びた。数々のアルバムで聴かれるピアノも独特なセンスが光り、強力なバッキングは聴き物。ジェファーソン・スターシップTNGでは、1995年・2001年とステージに登場しているが、原則的には音楽界からは引退して画家などの活動をしている。
    2005年発売DVD、ジェファーソン・エアプレインのアンソロジードキュメンタリー『フライ〜ジェファーソン・エアプレイン・ストーリー』内のインタビューでは「親はドイツからの移民一族、銀行家 (または銀行員)の家庭に育った。メンバー達とは『一緒に寝た』がマーティ・バリンとは交渉関係は無かった。親友か(肉親の)弟みたいな存在だった」と述懐していた。
    マーティ・バリン (Marty Balin)とポール・カントナー (Paul Kantner)の姓名はドイツ系縁の名字で、バンドの主導権を握る3人がほぼ偶然からドイツ系移民末裔だった。
  • スペンサー・ドライデン (Spencer Dryden) - ドラム (1966年-1970年) ※2005年死去
    全盛期ジェファーソン・エアプレインのリズムセクションを支えた実力派ドラマーで、喜劇王・チャップリンの甥。ジャズ出身らしいシャープなドラミングがバンドサウンドに特色を与えた。脱退後はグレイトフル・デッドのスプリンター・バンドであるニュー・ライダース・オブ・パープル・セイジに参加してカントリーロックを長らく演奏。元クイックシルヴァーのジョン・シポリナとも活動を共にした。1989年の再結成ジェファーソン・エアプレインには不参加。KBCバンドや現在のジェファーソン・スターシップのライブにはゲスト参加したことがある。2005年に死去。
  • パパ・ジョン・クリーチ (Papa John Creach) - ヴァイオリン (1971年-1975年、1992年-1994年)
    友人だったジョーイ・コヴィントンに紹介されて加入。フィドラーのいるバンドと言えばカンサスイッツ・ア・ビューティフル・デイも思い出されるが、こちらはブルース/カントリー/ジャズなどのルーツ・ミュージックが得意な黒人フィドラーが西海岸バンドに参加というのがユニークだった。並行してホット・ツナや自分のバンド、ズールーでも活動。現在、第一線で活躍するブルーズ・ギタリスト、ケブ・モ(ケビン・ムーア)は、かつてズールーの一員だった。1992年から1994年の死去まで、現ジェファーソン・スターシップTNGに参加。クリーンヘッド・ヴィンスンスリム・ゲイラードなどの有名ブルーズ/ジャイヴ・ミュージシャンとの交流もあり、若い頃の録音も残っている。
  • ジョーイ・コヴィントン (Joey Covington) - ドラム、ボーカル (1970年-1972年) ※2013年死去
    スペンサー・ドライデンの後任としてエアプレインに参加。バンドが望んだ、よりロック的でタイトなリズムをもたらした。エアプレインを辞めた後も、サンフランシスコのミュージシャンなどと活動を続けている。2013年に死去[15]
  • ジョン・バーベイタ (John Barbata) - ドラム、ボーカル (1972年-1979年)
    タートルズや、クロスビー、スティルス&ナッシュとの活動などを経て、エアプレインに参加したロック・ドラマー。伝説のL.A.スワンプバンドLAゲッタウェイ(通称)での活動も知られる。西海岸らしいカラっとした音色で端正なビートを叩き出す。交通事故で1978年に活動休止。現在は、自分のバンドでローカルな活動をしている。
  • グレイグ・チャキーソ (Craig Chaquico) - ギター (1974年-1992年)
    ハイスクール在籍中にプロとして初レコーディングを経験、1971年からカントナー&スリックのプロジェクトに参加。エアプレインが運営するグラント・レーベル所属のバンド、ジャックトレイラー&スティールウインドに在籍してレコードもリリース。カントナーに才能を認められ、後に19歳でジェファーソン・スターシップに加入。個性的でカラフルなギターワークでバンドに新風を吹き込んだ。スターシップ解散後はソロに転向し、アコースティック・アルバムを精力的に発表してグラミー賞ノミニーとなっている。自己のバンドでライブ活動も行なっている。
  • ピーター・カウコネン (Peter Kaukonen) - ベース、ギター (1974年)
    ヨーマ・カウコネンの実弟で、グラント・レーベルからソロ作品をリリース、カントナーのプロジェクト経てジェファーソン・スターシップ初期のツアーに参加した。1989年の再結成エアプレイン・サマーツアーにはギタリストとして参加、1990年代からジェファーソン・スターシップTNGのツアーではジャック・キャサディの代役として度々登場している。近年もシンガーソングライターとして、ソロ・アルバムをインディペンデントからリリースしている。
  • ピート・シアーズ (Pete Sears) - ベース、キーボード (1974年-1987年)
    ニッキー・ホプキンス等と同じく英国から西海岸に渡って来たミュージシャンのひとり。1960年代にはレ・フルール・ド・リスに一時期在籍。ロッド・スチュワートとの仕事でも知られ、ジャーニー結成以前のニール・ショーン、ドラマーのグレッグ・エリコとHappy Birthdayというトリオを組んだこともあるが、このユニットは実質的にほとんど活動しないまま空中分解している。サンフランシスコの名シンガー、キャシ・マクドナルドのソロにも参加。1973年、グレースの1stソロアルバムからファミリーに加わり、ジェファーソン・スターシップのメンバーになる。また、コパーヘッドで元クイックシルヴァーのギタリスト、ジョン・シポリナと活動したこともある。あらゆるキーボード類、ベース、ギターを弾きこなし、作曲/アレンジにも優れる。近年は、一時期Hot Tunaに正式参加したり、ジェファーソン・スターシップTNGのライブにゲスト参加したりしている。
  • ミッキー・トーマス (Micky Thomas) - ボーカル (1979年-1984年)
    南部出身で、黒人ゴスペルシンガーのバックコーラスなどを経て、エルヴィン・ビショップ・バンドで活躍。スリック、バリンの後釜としてジェファーソン・スターシップに参加。1985年頃、ピーター・セテラが抜けたシカゴ参加の打診も受けたが実現しなかった。近年では自己のスターシップ以外に、プロジェクト=オーヴァー・ジ・エッジ(2004年)のCDにも参加している。
  • エインズレー・ダンバー (Aynsley Dunber) - ドラム (1979年-1982年)
    名門ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ出身で、ジェフ・ベック・グループジャーニーにも在籍していた英国人の名ドラマー。ジャーニー脱退後、ピート・シアーズの推薦でジェファーソン・スターシップに参加。 脱退後は、英国バンド中心の活動に戻り、ホワイトスネイクに参加、度々とりざたされたレッド・ツェッペリン再編成の話題では参加も噂された。近年は再編されたアニマルズのライブに参加している。
  • ティム・ゴーマン (Tim Gorman) - キーボード、ボーカル (1985年-1987年、1990年-1995年)
    1980年代のザ・フーに参加、1985年KBC BAND参加。1992年ジェファーソン・スターシップTNG参加。ニッキー・ホプキンスやピート・シアーズを思わせるピアノプレイが秀逸。
  • スリック・アギラー (Mark "Slick" Aguilar) - ギター、ボーカル (1985年-1987年、1990年-2012年、2014年)
    ジェファーソン・スターシップTNGのリードギタリスト。マイアミスタジオ・ミュージシャン出身で、KC&ザ・サンシャイン・バンドなどに参加。1980年代にバリンのソロ、デヴィッド・クロスビー等と活動。1985年KBC参加以降、カントナー、バリンの右腕として活動を共にしている。病気療養のため2012年よりツアーには不参加だったが、2014年8月のライブに客演。
  • ブレット・ブルームフィールド (Blett Bloomfield) - ベース (1988年-1990年、1992年)
    1987年、グレイス・スリックのソロ・アルバムに参加した後、ピート・シアーズが抜けたスターシップに参加。1992年には再編成スターシップに一時参加した。
  • マーク・モーガン (Mark morgan) - キーボード (1988年-1990年)
    ピート・シアーズの脱退後、スターシップに参加。
  • ダービー・グールド (Darby Dould) - ボーカル (1992年-1995年、2008年)
    サンフランシスコで人気のあった、ワールド・エンタテインメント・ウォー(World Entertainmennt War)から、ポール・カントナー&フィーメイル・シンガーズ・プロジェクトに参加した後、ジェファーソン・スターシップTNGに。ライブ・アルバム『Deep Space/Virgin Sky』でCDデビュー。その後脱退するが『ウィンドウズ・オブ・ヘヴン』にもトラック8でゲスト・ボーカルとして参加。近年再びライブに登場し、ダイアナ・マンガーノとのツインボーカルも復活している。
  • プレイリー・プリンス (Prarie Prince) - ドラム (1992年-2008年)
    ジェファーソン・スターシップTNGから参加。通算7人目で、一番長くドラマーの座についている。かつてジャーニーのメジャー・デビュー以前の前身バンドであったゴールデン・ゲート・リズムセクションに在籍。サンフランシスコのニュー・ウェイヴ・グループであったThe TUBESのオリジナルメンバー。ジェームズ・ギャングやディープ・パープルのギタリストだったトミー・ボーリンのファースト・ソロ・アルバムにも参加。トッド・ラングレンのサポートでも活動。現在は、リック・オケイセック抜きでトッド・ラングレンをフロントマンに据えて再結成したニュー・カーズのアルバム/ツアーにも正式参加しているなど、多彩な活動歴を持つ。なお、再結成カーズへの加入に伴い、現在は正式メンバーではないが、時折ジェファーソン・スターシップTNGのライブにもゲスト出演している。
  • ダイアナ・マンガーノ (Diana Mangano) - ボーカル (1993年-2008年)
    1993年に開催されたWoodstock-Mexicoでジェファーソン・スターシップTNGのシンガーとしてデビュー。カントナーにデモ・テープを渡してファンからメンバーになった。当初はダービー・グールドとのツインボーカルでステージに立ったが、ダービー脱退後はメインボーカルとなる。
  • ゲイリー・キャンブラ (Gary Cambra) - キーボード (1995年-1996年)
    ジェファーソン・スターシップTNGから参加。西海岸では、TV番組の音楽監督としても知られる人物。
  • T・ラヴィッツ (T Lavitz) - キーボード (1996年-1998年)
    ジェファーソン・スターシップTNGから参加。スティーヴ・モーズ(現ディープ・パープル)が在籍していたディキシー・ドレッグスの元メンバー。

ディスコグラフィ

  • アルバムはベスト盤を除く/初リリース年を記載/太字はオリジナルスタジオ作品

(シングルはUS初回リリース通常盤のみ)

ジェファーソン・エアプレイン アルバム

  • 1966/RCA Jefferson Airplane Takes Off
  • 1967/RCA Surrealistic Pillow
  • 1967/RCA After Bathing at Baxter's
  • 1968/RCA Crown of Creation
  • 1969/RCA Bless Its Pointed Little Head
  • 1969/RCA Volunteers
  • 1971/GRUNT Bark
  • 1972/GRUNT Long John Silver
  • 1973/GRUNT Thirty Seconds Over Winterland
  • 1974/GRUNT Early Flight (スタジオ未発表曲集)
  • 1990/Thunderbolt Live At the Monterey Festival
  • 1998/BMG Live At The Fillmore East 1968
  • 2006/CHARLY At Golden Gate Park, May 7 1969
  • 2007/CHARLY Last Flight at Winterland Arena 22/09/1972
  • 2007/Legacy-SONY USA Sweeping Up the Spotlight At the Fillmore East 1969
  • 2007/CHARLY At The Family Dog Ballroom sept.1969 feat. Jerry Garcia

ポール・カントナーのプロジェクト アルバム

  • 1970/GRUNT Blows Against The Empire / Paul Kantner Jefferson Starship
  • 1971/GRUNT Sunfighter / Paul Kantner& Grace Slick
  • 1973/GRUNT Baron Von Tollbooth & The Chrome Nun / Kantner,Slick & Freiberg
  • 1973/GRUNT Manhole / Grace Slick
  • 1983/GRUNT Planet Earth Rock And Roll Orchestra / Paul Kantner(feat,JS)

ジェファーソン・スターシップ アルバム

  • 1974/GRUNT Dragon Fly
  • 1975/GRUNT Red Octopus
  • 1976/GRUNT Spitfire
  • 1978/GRUNT Earth
  • 1979/GRUNT Freedom At Point Zero
  • 1981/GRUNT Modern Times
  • 1982/GRUNT Winds Of Change
  • 1984/GRUNT Nuclear Furniture

スターシップ アルバム

  • 1985/GRUNT Knee Deep In The Hoopla (フープラ)
  • 1987/GRUNT No Protection
  • 1989/RCA Love Among The Cannibals

KBC バンド アルバム

  • 1986/ARISTA KBC Band

ジェファーソン・エアプレイン(再結成) アルバム

  • 1989/EPIC Jefferson Airplane

ジェファーソン・スターシップ(再結成) アルバム

  • 1995/INTERSOUND Deep Space/Virgin Sky (新曲を含むLive)
  • 1998/SPV Windows Of Heaven (GER Ver.)
  • 1999/CMC Windows Of Heaven (USA Ver./Japan Ver.)
  • 1999/CMC Greatest Hits Live At The Fillmore (Live)
  • 2001/CIA B.B.King's Blues Club 10-31-00 (Live)
  • 2001/CIA Vinoy Park 11-11-00 (Live)
  • 2001/ZEBRA Across The Sea Of Suns (Live)
  • 2003/RAINMAN Deeper Space/Extra Virgin Sky (Live)(1995年盤の完全収録版)
  • 2008/GRA Jefferson's Tree of Liberty

(以下は限定発売・CD-R仕様)

  • 2003/CIA Post 911-9.19.2001 Vincent's at Randolph,Ma. (Live)
  • 2003/CIA Post 911-9.21.2001 NJ Harley Pistol Grip Rally-Seaside Heights,NJ (Live)
  • 2003/CIA Post 911-11.02.2001 Mystic Theatre-Petaluma,CA (Live)
  • 2003/CIA Post 911-11.10.2001 Chameleon Club-Lancaster,PA (Live)
  • 2003/CIA Post 911-11.13.2001 Rechter Theater-Towson,MD (Live)
  • 2003/CIA Post 911-11.19.2001 The Turning Point-Piermont,NY (Live)
  • 2003/CIA UK 10-27-2002 Cardiff,Wales (Live)
  • 2003/CIA UK 10-28-2002 The Stables Wavendon (Live)
  • 2003/CIA UK 10-29-2002 Newcastle Opera House (Live)
  • 2003/CIA UK 10-31-2002 The Mean Fiddler London (Live)
  • 2003/CIA UK 11-01-2002 Bilston,England Robin2 (Live)
  • 2003/CIA UK 11-02-2002 Southampton,England The Brook (Live)
  • 2003/DISCLIVE Live 6/6/2003 (Live)
  • 2003/DISCLIVE Live 6/7/2003 8:00PM (Live)
  • 2003/DISCLIVE Live 6/7/2003 10:30PM (Live)

ジェファーソン・エアプレイン シングル

  • 1966 It's No Secret / Runnin' Round This World
  • 1966 Come Up the Years / Blues from An Airplane
  • 1966 Bringing Me Down / Let Me In
  • 1967 My Best Friend / How Do You Feel
  • 1967 Somebody to Love (あなただけを) / She Has funny Cars #5 US
  • 1967 White Rabbit / Plastic Fantastic lover #8 US
  • 1967 Ballad of You and Me and Pooneil / Two Heads #42 US
  • 1967 Watch Her Ride / Martha #61 US
  • 1968 Greasy Heart / Share A Little Joke #98 US
  • 1968 Crown of Creation / Lather #64 US
  • 1969 The Other Side of This Life / Plastic Fantastic Lover
  • 1969 Volunteers / We Can Be Together #65 US
  • 1970 Have You Seen the Saucers? / Mexico
  • 1971 Pretty as You Feel / Wild Turkey #60 US
  • 1971 Long John Silver / Milk Train
  • 1972 Twilight Double Leade / Trial By Fire

プロジェクト シングル

  • 1970 Child Is Coming / Let's Go Together
  • 1971 Sunfighter / China

ジェファーソン・スターシップ シングル

  • 1974 Ride the Tiger / Devils Den #84 US
  • 1975 Caroline / Be Young You
  • 1975 Miracles / Ai Garimasu #3 US
  • 1975 Play on Love / I Want To See Another World #49 US
  • 1976 With Your Love / Switchblade #12 US
  • 1976 St. Charles / Love Lovely Love #64 US
  • 1977 Count on Me / Show Yourself #8 US
  • 1977 Runaway / Hot water #12 US
  • 1978 Crazy Feelin / Love Too Good #54 US
  • 1978 Light the Sky on Fire / Hyper Drive #66 US
  • 1979 Jane / Freedom At Point Zero #14 US
  • 1980 Girl with the Hungry Eyes / Just The same #55 US
  • 1980 Rock Music / Lightning Rose
  • 1981 Find Your Way Back / Modern Times #29 US
  • 1981 Stranger / Free #48 US
  • 1981 Save Your Love / Wild Eyes
  • 1982 Be My Lady / Out of Control #28 US
  • 1982 Winds of Change / Black Widow #38 US
  • 1983 Can't Find Love / I Will Stay
  • 1984 No Way Out / Rose Goes to Yale #23 US
  • 1984 Layin' It on the Line / SHow Down #66 US

スターシップ シングル

  • 1985 We Built This City(シスコはロック・シティ) #1 US
  • 1985 Sara(セーラ) #1 US
  • 1986 Tomorrow Doesn't Matter Tonight #26 US
  • 1986 Before I Go #68 US
  • 1987 Nothing's Gonna Stop Us Now (愛はとまらない) #1 US - 映画マネキン主題歌 (ダイアン・ウォーレン作)
  • 1987 It's Not Over Til It's Over #9 US
  • 1987 Beat Patrol #46 US
  • 1987 Set the Night to Music
  • 1988 Wild Again #73 US
  • 1989 It's Not Enough (CD single) #12 US
  • 1989 I Didn't Mean to Stay All Night (CD single) #75 US
  • 1989 I'll Be There (CD single)
  • 1991 Good Heart (CD single) #81 US

KBC バンド シングル

  • 1986 America/WRECKING CREW
  • 1986 It's Not You, It's Not Me / Dream Mortorcycle
  • 1986 Hold Me

ジェファーソン・エアプレイン(再結成) シングル

  • 1989 Summer of Love
  • 1989 Planes
  • 1989 True Love

ジェファーソン・スターシップ(再結成) シングル

  • 1999 Let Me Fly

関連項目

参考文献

Take Me to a Circus Tent: The Jefferson Airplane Flight Manual / Craig Fenton著 (Infinity Pub, USA 2006)

Got A Revolution! The Turbulent Flight of Jefferson Airplane / Jeff Tamarkin著 (ATRIA BOOKS, USA 2003)

We All Are One / Gianluigi Blasi 著 (Sonic Book - Stampa Alternativa, Italy 1996)

ストレンジ・デイズ 2008年3月号 / ジェファーソン・スターシップ記事 (ストレンジデイズ刊, 2008)

ストレンジ・デイズ 2005年9月号 / ジェファーソン・エアプレイン特集 (ストレンジデイズ刊, 2005)

レコード・コレクターズ 1987年8月号 / サンフランシスコ・サウンド(1) ジェファスン・エアプレイン (ミュージック・マガジン刊, 1987)

レコード・コレクターズ増刊 / アメリカン・ロック Vol.1 (ミュージック・マガジン刊, 1992)

POP-SICLE (ポップシクル) Vol.4 No.10, December 1979 (ポップシクル 木崎義二 刊, 1979)

脚注

注釈

  1. ローリング・ストーンズ、アニマルズ、キンクス、ザ・フーなど、多くのUKバンドがアメリカのチャートでヒットを放った。
  2. グレイトフル・デッドやベルベット・アンダーグラウンドも同様のステージを見せていた。
  3. スリックはインタビューで「ドイツ移民末裔」と答えている。家系由来は別としてバリン、カントナーという姓名はドイツ人とその閨閥に多くみられる。
  4. 『不思議の国のアリス』と、ドラッグをテーマにしているものと見られている。
  5. ジミヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、サンタナら30組以上が出演。約40万人を集めたとも言われる。
  6. エルヴィン・ビショップの76年のヒット曲のヴォーカルを担当していた。
  7. 続く「アトランタ・レイディ」もヒットさせている。

出典

  1. Hall, Mitchell K. (2014). The Emergence of Rock and Roll: Music and the Rise of American Youth Culture. Oxfordshire: Taylor & Francis. p. 144. ISBN 978-1-135-05357-4
  2. Citron, Stephen (2008). Songwriting: A Complete Guide to the Craft. Limelight. p. 63. ISBN 978-0-879-10716-1
  3. Ruhlmann, William. Jefferson Airplane Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2023年4月5日閲覧。
  4. Ruhlmann, William. Jefferson Starship Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2023年4月5日閲覧。
  5. Mikiki編集部 (2022年11月25日). ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship)が来日 伝説的アメリカンロックバンドの生演奏をビルボードライブで体感しよう”. Mikiki. タワーレコード. 2023年4月5日閲覧。
  6. Buckley, Peter, ed (2003). The Rough Guide to Rock. London: Rough Guides. p. 507. ISBN 978-1-843-53105-0
  7. 書籍「Got a Revolution!」Jeff Tamarkin
  8. 「Jeffarson Airplane Unauthorized」 RB Grimm
  9. Somebody to Love All Music 2020年12月7日
  10. http://www.allmusic.com/album/miracles-mw0000232168
  11. ジェファーソン・エアプレインのポール・カントナー、死去”. BARKS (2016年1月29日). 2018年9月30日閲覧。
  12. ジェファーソン・エアプレインの結成メンバーであった女性ヴォーカリストのシグニー・トリー・アンダーソンが死去”. amass (2016年1月31日). 2018年9月30日閲覧。
  13. ジェファーソン・エアプレインの創設メンバー、マーティ・バリン、死去”. BARKS (2018年9月29日). 2018年9月30日閲覧。
  14. オリコンのデータ協力による “全曲、80年代の週間オリコンチャートNo.1” の洋楽コンピが登場!、ソニーミュージック、2017年8月8日。
  15. ジェファーソン・エアプレインやホット・ツナでも活躍したドラマーのジョーイ・コヴィントンが死去”. amass (2013年6月6日). 2018年9月30日閲覧。

外部リンク

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