クラスキノ
都市概要
もともとノヴォキーエフスコエという名前であったが、1936年3月に長嶺子事件で戦死したミハイル・クラスキン赤軍中尉を記念して同年5月改名した。2002年国勢調査による人口は3451人。うち男性49.9%、女性50.1%。
歴史
7世紀 - 10世紀頃、この地域には渤海国(698年 - 926年)の塩州城(염주성、ヨンチュソン)に比定されているクラスキノ土城の他、多くのクルガン(古墳)があり、古代の面影を今に伝える。クラスキノ土城は渤海国の使節団(渤海使)が日本に向かった出発地といわれ、青山学院大学(田村晃一名誉教授)などが発掘しに来ている[1]。朝鮮語名は「연추」(煙秋、ヨンチュ)で、沿海地方最大の朝鮮人コミュニティが形成され、朝鮮独立運動の重要な拠点の一つであった。
1940年、都市型集落となった。
脚注
- 『クラスキノ:ロシア・クラスキノ村における一古城跡の発掘調査』田村晃一(2011年〈平成23年〉)
参考文献
関連項目
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